続浜名湖ガーデンパークの世界庭園と本物モネの庭と館
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プリンセスアフタヌーンティーも予約出来ます。
湖畔の美しい自然と、 開放感あふれる景観の中に誕生した「浜名湖ガーデンパーク」。
ボランティアをはじめ、学校や企業など、
みんなの力で公園を育てていく今までにない新しいスタイルが、 浜名湖ガーデンパークの魅力です。 みんなの知恵や夢・アイデアが、あちこちに、いろいろなカタチとなって花開く公園、 浜名湖ガーデンパークをエリアごとにご紹介します。 ※公園全体図はこちらをクリック→http://www.hamanako-gardenpark.jp/event/images/zentai.jpg 広いPあり入園料Pも無料
白いつつじとムスカリ
庭園には池が欠かせませんね。
陶板野モネの絵が庭に有ります。
晴れた日は琵琶湖も絶景
本家モネの館は内部見学てきます、染付や浮世絵などもあります、
キッチンが黄色で可愛かったです。
撮影禁止だったか、まだデジカメありませんでした。
ここも薔薇の季節は華やかです。
フランスの庭園廻ったことが思い出されます。
この浜名湖ガーデンパークも良く出来ています。
浜松は凄い
↑↓は本物のモネの館と庭
これはパリからのバスツアーで行きました。
日本語ツアーは曜日があわず英語ツアーでした。
ここでは取り残されることなく無事にパリへ帰れました
イギリスのマグナカルタのソールズベリーの教会で置いていかれた私、
ロンドンまでどうして帰ろうかと思って歩いていたら向こうから
見覚えのある観光バスが来て乗せてもらえました
日本はお客の数数えてくれてこんな事は珍しいですね。
↑薔薇の季節の本物モネの庭
ここから又浜名湖です。
フラワーパークでもう終わりだった水仙が
春は黄色
チューリップは派手な色が多いのにごちゃごちゃ、どんじゃらガーデンにはならないのはさすがプロですね。
実物は渋い煉瓦色の中リップ
手前のピンクと白のチューリップは一本から出ています
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寂しい丸栄撤退と桜満開のフラワーパーク
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4月6日にまだ5分咲きなのに待ち切れずフラワーパークに行きました、その後は雨雨雨、やっと昨日満開だろうと再び高速で。
うちから高速まで何キロかあり97キロ高速走り、浜松西インターで降りでパークまで車で15分です。今回も夫は行かないと固い決意でwww
上は浜名湖SAです、桜の時期には来たことないのでラッキー。
広くて気持ちの良いSAです。
建築賞に輝いた丸栄ももうデパート業務から撤退、若いころは服や食料品買いました。
設計 村野藤吾
エスカレーターも名古屋戦後初!
エレベーターも子供の時から凄いと思っていました。東郷 青児です!
他のデパートより食料品もいち早く5%引きだったのに。
今は庶民の税負担ばかり多くなり買えないからこういう事になります。昔は贅沢品だけに税金かかりましたが今は何でもかんでも消費税。
本や子供用品にも容赦ない非文化的国家です。
リングも37500円から税がかかったような。酷い政治ではありませんか。
西の壁のタイルも見事です。
高いPのデパート、今は服も買えません。
松坂屋には太郎さんの手の形の椅子等ありましたが今いずこに?
腰痛良くなっていたところに、浜松で温泉にも入らず250キロぐらい走り、帰宅して、簡単な夕食出し、ネットをやったら今度は左側の腰が痛み始めました。朝ぶろで少し良くなりました、無謀な私
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まだ浜松フラワーガーデン5
何でもぎっしり
これ何の実だったか、
街子さんがヒスイカズラと教えてくださいました、感謝
このブラックアイリスはヨルダン王国の国花に指定されていますが、日本の国花の桜や菊のようにあちらこちらで見られるものではありません。
ヒカリゴケを観るのもお忘れなく
ヒカリゴケ事件
一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」
青いシクラメンセレナーディアとネモフィラ♪浜名湖ガーデンパーク
先週、4月6日まだ桜五分咲きなのに待ち切れず世界一の桜とチューリップを見に浜松まで行きました。やっと天気になったので満開の世界一の桜とチューリップと暫く行っていない浜名湖ガーデンパーク←
に行ってきました
今日のフラワーパークの水仙はもうほとんど終わりチューリップも開きすぎ、数日間の雨で乱れていたので、美しい姿を6日に観ておいてよかったと思います。
懲りないでしょう。一人旅、るんるん
浜名湖ガーデンパークと桜満開のフラワーパークと、フルーツパークには行けませんでした。
「セレナーディア」初めて観ました!衝撃的
この紫のオブジェ、風に吹かれてゆらゆらしてました、
風が強い日でした。
以前はこの場所の花はクリスマスローズだけでした。
ここにもチューリップは沢山咲いてましたが
フラワーパークとは植栽が違いますそれはまた、観てくださいね。
そして憧れの群生
夫が一緒でないからこのタワーも遊覧船にも乗れましたが
船は時間があわず結局全部歩きました。
今日も新聞に退職後の夫とけんかする妻、お互いにわがままになり…
妻はもう長年炊事洗濯掃除してきたので昼ぐらいは解放してとか、
バスツアーに行っても現地解散しようと言う知恵を伝授していました。趣味も違いますから。
友人の知人は夫の退職後も三度三度食事作っていたらストレスで病死
夫は後追い自殺
そこまで追い込まないで。
私と学生時代の別の友人は不良妻なので
一人旅させてもらいます。
夫は新幹線、バス、飛行機、船等乗りたくない。
待っていたら私死にますから。
うちはマイカーでももう遠出が嫌なようで
お願いしても行かないと強く言われます。
友人はそれなら大手ふっていけるわよと。
彼女の夫は病気あるのに、買い物炊事します
タワーから見ると
地上では見えない模様が
地上50メートルからの絶景、360度
富士山は見えませんでした。
中国庭園等が見えます。
以前ここを通過する遊覧船UPしました。
オランダみたいでしょう。
4月に来たのは初めて?
ここが出来た時と、そのあと、3回目です。
国営ひたち海浜公園には行けそうもないので。
浜松フラワーガーデン4クリスタルパレスのフェァリー
水と音楽の大噴水ショー
初めて観た時の驚き、入り口からはすぐには見えません、
隠れています
優しい色合わせ
見せてくれます。
吉谷圭子さんのフェアリーが植物に水やり
水がしみ込め、しみ込めといいながらやると以前言われてました。
なかなかしみ込まないようです。
テレビの園芸家は表面の土が乾いてから水やりといいますが
薔薇はそれでは遅いとバラ会の方は言います。
ここにカフェが有り一休み出来ます。
まだ続きます、すいません
薔薇館で生演奏付きライブペインティング♪
今日はせっかくのサクラ満開でも、桜の周囲を車で廻るだけ、
夫が好きな温泉につきあうだけと思っていたらとてもラッキーなことがありました。
薔薇館は20年は通ってるレストランです。椿とバラが綺麗です。
外観はイギリスの田舎のコテージ、中にはアンティークが一杯。
ああ、こんな家に住みたい
ここは枝垂れ梅で有名な名古屋市農業センターの入り口にあります。
薔薇が好きでもなかなか欲しいバラの絵はありません、アンティークの安物はゲットしました。
先代オーナーがパリの飲みの市で買ってきた薔薇の絵もお気に入りです。
石上誠さんのこの絵は70万ぐらいだったか、油絵なら一輪でも6,7万です。
扉開けて裸婦が入り又最後に出てくる美しい連作があります。
ここはお料理出てくるまで時間かかります。人参とキャベツのスープ
パエリアご飯のカレーも美味しいですが最近はランチを。
トイレの椿
扇などは最近見かけません。
最初立ったまま、赤いエナメル絵具をバーツとかけられました、びっくり。
10年も前か、刈谷美術館で宇野 亜喜良のライブペインティング鑑賞して以来です。
オンブラマイフ(米良さんが歌うこの曲大好き)チャールダシュー(今は亡き元宝塚トップの大浦みずきがこれで踊った舞台は絶品でした)種等有名で大好きな曲ばかり弾いてくれて、もう心にビタミンシャワー浴びたみたい、
毒と隣り合わせの薬と違い副作用なし
あっと言う間に綺麗な色が塗られ、最後は白をかけ手で擦り…
30分ほどで、完成
「最初は薔薇を描くつもりがリサーチ不足で」と言われました。
裸婦が登場しました。
このお店の歴史は50年、
四月終わりには薔薇の貴公子大野さんが登場します。
今日は無料なのに大野さんはお土産付きで有料です。
追記
画家の大事な言葉を忘れました。
今の日本の状態は…
石上さんは
それに対して
サヴォナローラは芸術を否定しました。
ジローラモ・サヴォナローラ (Girolamo Savonarola, 1452年9月21日 - 1498年5月23日) は、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。フィレンツェで神権政治を行った。宗教改革の先駆と評価されることもある。
贅沢品として工芸品や美術品をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ、市民生活は殺伐としたものになった。画家サンドロ・ボッティチェッリも彼の影響を受けて華美な絵を書くのを止めてしまったほどである。だがサヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。
米良美一デビュー20周年とコンサート
豪華な美輪明宏氏らしい花籠ですね。
黄色がトレードマーク?
春らしくてルンルン
米良さんはお母さんを想って美輪さんのヨイトマケの唄も
歌っています。
病気の美一氏を音大に送るには大変な費用もかかったでしょう。
コンサートホールです。
歌手は米良さんだけなので1時間半ぐらいだろうと思ったら2時間半も
大萩浩司 ギター
藤江博子 ピアノ
以前の伏見でのコンサートも彼女の伴奏、、可愛いお弟子さんたちが
ドレスアップしていて可愛いかった
弦楽カルテット、女神降臨
第一ヴァイオリン 吉岡麻貴子
第二ヴァイオリン 戸上眞里
ヴィオラ 村田恵子
チェロ 三宅依子
豪華版でしょう。
子供たちのために残したい唄と言うだけあって
最後は少女合唱団が登場
前半はヘンデルや日本の歌でマイクなし。
私は最盛期の米良さんが世界のソプラノグルベローヴァや
マイクなしのオペラ歌手の歌声は清らかに染み入ります。
休憩をはさんで武満徹やレイ・ゲイラ、無言唄、手紙、花は咲く、
アンコールにヨイトマケの唄
二時間半も病み上がりで心配です、お疲れ様です。
イトマケ
私は米良さんの「水色のワルツ」が好きでどれだけ聴いたでしょうか。
1971年宮崎県西都市に生まれる。先天性骨形成不全症を患っていたため、幼いころから骨折を繰り返していた。1978年 - 1984年地元の西都市立三財小学校に通う。子供の頃から歌が好きであったが、身長が伸びず、両腕も伸ばせない症状のため、手を重ねて歌う姿に小学生時代には執拗ないじめを受けた。7歳からの数年間は宮崎市の宮崎県立赤江養護学校(現・赤江まつばら支援学校)に籍を置いて寄宿舎生活を送った。体調不良により床に臥す日々が続く時はカセットテープに録音されていた歌謡曲を聴いて過ごし、演歌、民謡に親しんだ。初めに聞いた曲がきっかけでアイドル歌手・松田聖子の大ファンになり、裏声でそのマネをしたことが米良のカウンターテナーの原点となった。
1984年 - 1987年中学時代も養護学校で学んだ。寄宿舎での生活は「寂しさを紛らわす為か、風呂場で詩吟を吟じた事があって、とても上手かった。」と当時の寮母長に回顧されているが、寄宿舎内に現存するオルガンを弾く事を勧められたことが、後の米良自身の歌の表現力の基礎になった。故郷を夢想しながら、これまで聞く事がなかったジャンルの歌に接することで刺激を受けて数年間を過ごす。1987年 - 1990年将来の進路について、音楽を人生の支えとすることを決意し、音楽大学進学を志す。父親は反対したが母親は賛成し、経済的余裕のない中で私立大学に通う資金援助を受けることとなった。また、養護学校の音楽教諭も無謀と言われたプログラムに熱心に取り組む。1990年努力の甲斐あって神奈川県の洗足学園音楽大学へ進学。在学中に、テノールから女声の音域を歌うカウンターテナー(男声アルト)に転向する。1994年大学を首席で卒業。5月、第8回古楽コンクール最高位を獲得。1995年奏楽堂日本歌曲コンクール3位入賞。
エディタ・グルベローヴァ&米良美一 イン・コンサート
(1999年7月23日)
本も読みました。
著書[編集]
- 日本のうた300、やすらぎの世界(1997年、講談社+α文庫)ISBN 4062562278
- 米良美一の美神讃歌 エッセイ and CD(1998年、講談社)ISBN 4062092956
- 天使の声〜生きながら生まれ変わる(2007年、大和書房)ISBN 9784479011972
- 母 米良美一・石牟礼道子(2011年藤原書店)
テレビドラマ[編集]
本当に辛い闘病さtれてきました、大人になってからはともかく、子供の時は骨が折れる病気で親と離れて暮らさなければならなかったのです。