riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">「これ以上の戦争は、侵略だ」   反戦僧 竹中彰元 師</span>



 
先月、大垣の明泉寺での反戦僧という事で処罰された竹中彰元についての野田正彰講演会があったが参加できなかったのでHPから転載させていただきます。

野田さんは「戦争と罪責」「庭園に死す」http://plaza.rakuten.co.jp/ribon5235/diary/200710210000/などの著書読み、尊敬している先生。以下は明泉寺HPより


真宗大谷派、竹中彰元師復権顕彰大会開き、謝罪す

 真宗大谷派東本願寺)は、10月19日(金)岐阜県垂井町の明泉寺で、竹中彰元師の名誉回復のための「復権顕彰大会」を開きました。処分から69年ぶりのことです。激しい雨の中でしたが、北海道など全国各地から約400人の人たちが参加しました。

 本山からは熊谷宗恵宗務総長が参加、「竹中師の志願に耳をかたむけることなく、非戦をとなえ教えに生きんとした僧侶に対し、処分を下したこと自体が、宗派が犯した大きな過ちであります。このことによって、師はもとより家族と明泉寺同行の皆さまに苦痛と悲しみをもたらしました。さらに今日まで放置し続けてきたことを思いますと慚愧に堪えず、心より謝罪します。」と「復権・顕彰に関する声明」を発表しました。

 続いて野田正彰氏(関西学院大学教授)の「日本仏教と戦争責任」と題する講演に入り、①彰元師は単に戦争に反対しただけでなく自治政府を建設しようとしている中国の民衆や農民、やがて強制労働にかり出されていく保定の人たちに心を配っていた、②この日本が犯した侵略戦争の反省を戦後本当に活かしてきたのか、
   (声明を読み上げる熊谷宗務総長)                          
③日本と違い戦後の反省を積みあげているドイツ、④なぜ仏教者は戦争を止められなかったのか、またベトナムカンボジアミャンマーなどの仏教弾圧に日本の仏教は何をしたのかなどと話され、最後に過去を知ることは、現在を生き生きと生きることだとまとめられました。


最後にお孫さんに当たる前住職竹中信雄氏が挨拶され、厳しかったり腹の据わった人柄である反面、子どものようにうれしがる素直な一面もあったと紹介され、「平和のため私自身も精一杯がんばる」と結ばれました。竹中彰元師を最初にとりあげ紹介し、今回の復権のきっかっけをつくった大東仁さんは、「信雄さんが喜んでくれたのが一番嬉しい」を語ってくれました。また「彰元忌」を主催し、名誉回復運動を続けてきた岐阜県宗教者平和の会からも多数参加していました。






 昨年の署名活動などを受けて、宗派内で名誉回復の声が高まり、今年6月の宗議会で熊谷宗務総長が名誉回復の方針を正式表明。同派は、9月25日付で軽停班と布教使資格のはく奪処分そのものを取り消しました。



陸軍刑法違反などで公判に
 1937(昭和12)年12月13日、岐阜地方裁判所予審判事は、岐阜県不破郡岩手村大字岩手(現在は垂井町岩手)真宗大谷派明泉寺住職竹中彰元(71歳)についての予審を終え、竹中氏陸軍刑法第2条、第99条、刑法55条に該当する嫌疑があるとして、岐阜地裁の公判に付すことを決めた。主要な犯罪容疑は陸軍刑法99条の「戦時マタハ事変ニ際シ軍事ニ関スル造言飛語ヲ為シタル者」を7年以下の禁固に処すことにした項にあたり、2条は哨兵への暴行侮辱、軍用建造物・汽車・橋梁の損壊、俘虜逃亡の幇助など、この法律が陸軍軍人以外にも適用する条文を定めた項、刑法55条は連続犯(1947年に削除)への規定である。

 岐阜地裁の「予審終結決定」によれば犯罪の容疑とした「軍事ニ関スル造言飛語」とは、(1)日中戦争開始2ヶ月後の同年9月15日、出征軍人の見送りに村人500人と垂井駅へ向かう途中、ある村民に「昨日千人、今日三千人と沢山な死傷者が出て悲惨なことだ。一体戦争は罪悪である。国家は莫大な費用を空費し、損である。戦争はもうこの辺で止めた方が、国家として賢明である」と語り、(2)また10月10日にも、同村不退寺で開かれた7人の僧侶の会合の席上で、「今度の事変について、各自の決心を定めねばならないが、自分は戦争は沢山な彼我のの人命を損し悲惨の極みであり、罪悪であると思う。今度の予算も厖大なものである。保定や天津を奪ってどれだけの利益があるか。戦争はもうここらで止めた方がよい。これ以上の戦争は、侵略だ」と説いたことをあげている。更にこうした発言の背景に、開戦による出征兵士の苦労への同情、多数の人馬を殺生する戦争への罪悪感、華北自治政権樹立の動きを援助して, 和平に持ち込む以外にないとする考えがあったことをあげている。今から戦場に赴く隣人を見送る村人の高揚した雰囲気の中でも反戦を説き、僧侶たちの会合で一人一人の平和への姿勢を問う気概の中に、大無量寿経の「兵戈無用」を根拠とした、彰元の高レベルに達していた宗教的確信を見ることができる。しかし時流はこの老僧を受け入れず、直ちに身柄は拘束された。

 ものがいえなくなる世相の中で 当時の新聞紙面を見ると、開戦直後の好戦的な活気あふれる記事が踊っている。彰元が村人に語った6日後の21日付けの大阪朝日新聞岐阜版は、新聞トップに「県民よさらば!勇士征途にのぼる大歓声の怒濤に送られて 歩武堂々○○駅を出発」の見出しと、岐阜市の目抜き通りの両側を埋め、日の丸をうち振る市民の写真を掲げ、郷土部隊の進発の様子を伝えている。
「進軍ラッパだ。街頭には幾万の人が堵列して 声を限りに「万歳」を叫び小旗を力の限りうち振って激励する。怒濤のごとき歓呼が渦巻く--」
「見送り人に最後の挨拶を交わすのを聞くと、”生きて帰らぬ覚悟です”    ”白木の箱に入って帰ります” ”支那人を斬って斬って斬りまくります”    ”機関銃を土産に持ってくるぜハハ--- ”など臆夫をして立たたしめるといふ文句を思ひ出す。軍国日本なればこその力強き出征風景の氾濫だ。」
同じ紙面の残りは、「ああ護国の花!」として31名の県出身兵士の戦死の報道が遺影とともに埋められている。家族にとっての最大の惨禍を伝えるこうした記事も、「父親は笑顔さえ浮かべて、立派にお役に立ってくれたでしょうか、軍人が戦場で死するのは本望と思ひますと語る」という調子でしか、取り上げられていない。

また、不退寺での侵略発言の6日後、10月16日付けの同紙では、郷土部隊の呉港上陸作戦の戦死者98名の帰還を「悲しみの街に弔旗重くたれ語らぬ武勲いや高し」と報じているが、プラットホームには2500人が「新聞熱烈に歓送、しめやかな哀悼の誠」を表し、「仏教団僧侶の読経は低く力強く湧き起こって、勇士たちのありし日の奮戦ぶりを人々の胸に呼び醒ます」と書くなど、彰元の意識とは違う次元で生と死が扱われている。

明泉寺檀徒から嘆願書提出
 予審決定が出される前月、明泉寺檀徒名で、岐阜地裁検事局へ嘆願書が提出されている。         仏前での読経では威儀、厳粛、丁重で、三部経拝読には一語一句明瞭に読み遅くても2時間までですむものを3時間かけ、その間経本を両手に奉持し経机に置くことはない。読経中に談話などするものには叱責、作法心得を説く。
 農繁期には保育園を毎年開設し、垂井駅まで4キロあまりの出征兵士者見送りは毎回欠かすことなく、今回の事変に当たり国防献金を呼びかけ、岩手村婦人会よりの献金をまとめるなどなど国家公共のことに積極的に取り組んでいる。 
 昭和11年2月の総選挙の当日、関ヶ原町の檀家の法要に出向いていたが、止めるのも聞かず6キロの雪道を、体の前後に法衣その他の荷物を負いながらかけつけ、締め切り1分前に投票所に到着するなど責任感も強い。
 四十有余年にわたる老師の業績は高く評価され、本山より門跡の名の一字を賜り、「慈元」を「彰元」と改名を許され、現在大僧都の僧位にある。

 など、4000字を越す長文であるにもかかわらず簡潔、要領を得てしかも達筆、内容は老住職への思いのこもったものになっている。「今回何かお取り調べを受けることと相成り」と容疑内容に関しては一切無視しながら、「非違ナキニ非違アリトセンガ如キ輩アルガ為ニ老師ノ晩年ヲ傷ツクルガ如キハ仏モ菩薩モ許し玉ハザル処」と内通者を厳しく戒めている。この判断は後の歴史に照らしても正当であり、またこの時代の流れの裏側にある、明泉寺檀徒の醒めた目を見ることができる。次いで彰元の厳格精励な性格、門徒の善導教化、佛恩報謝、忠君愛国、国民精神高揚にいかに心身を注いでいるかを具体的に述べ、「私共檀徒ノ意ノ在ル処ヲ御汲取被成下、適法ニシテ御寛大ナル御裁断相仰ギ度」と結んでいる。世の冷視を浴びている彰元にとって、檀徒の評価はどんなに励ましになったか、想像に難くない。
 明泉寺のある垂井町岩手は、軍師竹中半兵衛の出身地として知らる伊吹山脈に抱かれた古い集落で、明泉寺は、半兵衛の妹が開基となる古刹である。彰元は 1667(慶応3)年ここに生まれ、真宗大学を卒業、早くに父を失い若年にして明泉寺住職を継いだ。本山布教師として全国的に活躍、昭和9年からは最高布教師の任につき、徳を慕い遠近より明泉寺に参詣するものも多かったという。

判決は禁固4月、大谷派本山からも
 1938(昭和13)年4月27日、名古屋控訴院は彰元に陸軍刑法第99条違反の罪で、禁固4月、執行猶予3年の有罪判決をを言い渡し、刑は確定した。下獄は免れたもの、彰元の口は封じられた。戦争協力を積極的に進めていた真宗大谷派本山は、彰元を※1特別黜罰処分(免職)に処した。
 1940(昭和15)年皇紀二千六百年恩赦で、名古屋控訴院は2月11日付けでを禁固2月20日、執行猶予3年に減刑しているが、実質的な意味はない。敗戦2ヶ月後の、1945年10月21日、彰元は79歳の生涯を閉じたが、戦後の侵略戦争への反省やファシズムの全面否定の行われる中でも、過去の陸軍刑事罰の取り消しはなかった。また、※2大谷派本山からの名誉回復も行われていない。
 しかし、戦後50年を前にした1994年から大谷派教団の戦争協力、戦争責任を明らかにする「平和展」が名古屋東別院などで開かれ、その中で彰元の事件も明らかにされ、大谷派からの復権が始まった。
                                                   篠崎 喜樹
(これは、歴史教育者協議会編「草の根の反戦・抵抗の歴史に学ぶ」平和文化出版 のための草稿です。)

※1 その後の広瀬顕雄氏の調査で本山の処分特別黜罰処分は、「軽停班3年」というものであったことが分かりましたした。
 僧侶として着る衣、かける袈裟、法要の席で座る位置などは堂班という僧侶の位で決まっています。それを5
年未満の間停止するというものを「軽停班」といいます。したがって法要の席では3年間、一番末席に、一番地味な衣を着て座ることになるのです。