<span itemprop="headline">私生活</span>
http://show.blogmura.com/ にほんブログ村 演劇ブログへ
美しくご立派になられました、寺島しのぶ
1幕は大爆笑です。
右隣の女性は笑ってなかった。エッ?
ノエル・カワード作・ジョン・ケアード演出の私生活
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20081001et07.htmを観た。
寺島しのぶ、内野聖陽、篤姫にも出ている中嶋朋子、出てくるだけで笑わせてくれる劇団☆新感線の橋本じゅんの出演。
内野聖陽は「エリザベート」http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/17616912.htmlでは見てなくてここで歌が聴けるとは。
映画「あかね空」やドラマ「蝉しぐれ」の内野さん、いいですねえ。
「エリザベート」の一路さんと結婚。
「エリザベート」は山口祐一郎http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/17303600.html(今篤姫の久光役で出演)でしか観たことがない。歌唱力で名高い人。ハンサムだけどトークは爆笑もの。
寺島しのぶは 琉球の風(1993年、父の尾上菊五郎が尚永王役、また母の富司純子が尚永王妃役で共演し、配役のうえでも親子を演じた。 ) 尚寧王妃役で観た時、「気の毒に親の七光か、お母さんは奇麗なのに」なんて思ってしまった。
文学座で勉強し、玉三郎の96年のふるあめりかに袖はぬらさじもhttp://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/24078616.htmlに出ていたがまだピンとこなかったのが、
赤目四十八瀧心中未遂
http://www.uchidayuya.com/filmography/akame/premiere.html(2003年)で本当に感心した。お母さんには反対されたと言うが映画の内容がいいので。
寺島が原作読み読者カードに書いて映画を熱望したようだ。
ヴァイブレータ (2003年)も評判高い
高倉健の単騎千里を走るhttp://www.eigaseikatu.com/title/13667/(2006年中国の人との温かい交流描く。お勧め)にも出ている。
書く女http://www.nitosha.net/history/stage33/(2006年)のあの長いセリフ。
永井愛の歌わせたい男たちhttp://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/に感心して観た舞台。
樋口一葉のイメージが変った。桃水にお汁粉作ってもらう頼もしい一葉。
「私生活」は 愛しながらも、ぶつかり合う男女をコミカルに描くコメディ3日寺島しのぶが、文学座時代の同期、内野聖陽と初共演。
アマンダ(寺島)はビクター(橋本じゅん)と再婚しハネムーンにやってきた。かっこいい。お洒落なドレス!
ところが隣の部屋に元夫エリオット(内野)が同じく新婚でシビル(中嶋朋子)と。想像がつくでしょう。
焼けぼっくいに火がついて2人は相手を置いてきぼりにして駆け落ち。
愛していてもすぐ大喧嘩、爆笑しながらそのセリフに観客も自分の姿を重ねることになる。面白いです。稽古は大変でしょうが。
作家、演出家、俳優、スタッフは偉い!
この作品が1930年代に書かれているとは思えないぐらい現代的、古くない。男と女、結婚や恋愛についてするどい。
以下はWikipediaより
英国のノエル・カワードが1930年に書いた戯曲は、結婚や恋愛についての本音を、当時としては大胆かつストレートに描いた喜劇だ。
寺島は「端から見たらちっぽけなことで真剣にけんかする男女の関係が、とても緻密(ちみつ)に書かれている。その掛け合いを、うまく表現できたら」と話す。
寺島と内野は1992年、文学座研究所に入った同期生。96年寺島は退団
「研究所では恋人役などで一緒に芝居をすることが多かった。お互いが劇団内で生き残るため、相手に『ああだ、こうだ』と言ったことも。『それは違う』と言ってくれる同志がいるのはありがたいですね」
そうした内野とのプライベートな関係が、今回の舞台に生かせれば、と考えている。
「互いを尊敬しつつ、公私が混ざり合ってぶつかっていけたら、いい芝居になると思う。芝居にけちをつけ、罵倒(ばとう)し合っていた時を思い出して。見ていただければ、二人がどんなに近しいか、分かると思います」
ノエル・カワードは
ロンドン(旧ミドルセックス州テディントン)出身。父親はピアノのセールスマンだった。1910年に子役で初舞台を踏んだ。第一次世界大戦後のイギリスにも登場したジャズ・エイジの風潮のなか、中流階級の移ろいやすい、気ままな生活や、男女関係がくるくる入れ替わる恋愛ゲームなど、おしゃれでウィットに富んだ作品で人気を得た。長く続いたヴィクトリア朝の厳格な雰囲気に飽き飽きしていた若い世代は、熱狂的に彼の作品を支持した。
「人生はうわべだけのパーティー」と考える彼は、真剣に人を愛したり、真剣に国を愛したり、真剣に人生に悩んだりすることを極端に嫌った。シリアスな人生劇より、洗練された喜劇を好んだ。
1920年代のファッションに大きな影響を与えた。首にスカーフをまくことや、タートルネックセーターは1924年の舞台『ヴォルテックス』で彼が初めて身につけた。ショーン・コネリーがジェームズ・ボンド役に決まった時、まずカワードのところにファッションの相談に行ったという。
1942年に『軍旗の下に』でアカデミー特別賞を受賞、脚本賞にもノミネートされた。
交友関係が広く、ガートルード・ローレンス、チャップリン、マレーネ・ディートリヒらと親交があった。首相になる前から、ウィンストン・チャーチルとはしばしば写生に行く絵描き仲間だった。第二次世界大戦が始まると、「戦争は憎しみの舞台。芝居という魅力の舞台に立つ者には最も不向きなものだ」とカワードは発言し、戦争支持の風潮に背を向けた。そのため、非国民のレッテルを張られ批判された。その時、チャーチルは「あんなやつ、戦場に行っても役に立たない。一人ぐらい恋だ愛だと歌っているヤツがいてもいい」と旧友を弁護した。
第二次大戦後、新作は発表するものの、徐々にペースが鈍り、現役を退いていった。1950年代に入ると、イギリスの税金の高さに嫌気がさし、バミューダ島に移住した。冷戦のさなかであり、友人に「現代という時代が嫌いになった」と漏らしていた。