riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">「出星前夜」を読んで</span>


http://www.blogmura.com/

541ページに及ぶ大作、作家飯嶋和一氏の凄いこと。
まさに「こみあげてくる嗚咽を抑えることはできない。」

島原の乱の蜂起2万7000~3万7000人、壮年の男は5000人しかいなかった。後は女、子供、老人だった。

7月22日は「マグダレナのマリアの祝日」で女人たちの特別な祝祭日。
夜通しの盛大な祭りが行われた。「罪女」がキリストの復活を最初に確認したのだ。
この日本の戦乱の時代、女人は男の所有する家財道具、後継ぎを産む道具、贈答品だった。そんな時代にヴァリャーノをはじめとしてすぐれた宣教師が「女たちもまた神によって作られた同じ救済を受けるべき価値と権利を持った存在であることを教えた。彼女たち一人ひとりの人格と魂は、全世界の権力や価値にも勝る尊いものとして確認されることとなった。男たちによって押し付けられた、罪や汚れ、世の中の不当な仕組みから解放されるべき尊い存在であることを知るにいたった聖母マリア」の生誕の祝日より南目の女たちにとって重要な一日だった。こういうことを書いてくれる作者には感謝。

天草四郎も出てくるがこの乱の発端作った若い寿安と一度はキリシタンであることを捨て篤農家になっていた鬼塚監物の二人の人生の交差が素晴らしい。

過酷な年貢、飢饉、疫病。特に幼い子供がなすすべもなく死んで行くのは辛い。

麦は実を結ばず、それを刈ることもなく従がって田植えも放棄。

このままでは全滅であるのに大人たちはただ松倉の圧政になすすべもなかった。

「民の糧を公然とかすめ取る盗人に過ぎない」のは今も当てはまるではないか。

「戦の興奮に駆られてしまえばなんでもできる。怒りと憎しみの感情の一切を敵めがけてぶつけるだけのこと。何がおこるか誰にも見当もつかない。そんな興奮と熱気に皆が憑かれ殺しあう。寒々とした熱狂だ」

これも現代の戦争と同じでしょう。

やむにやまれす19才の寿安が蜂起したら逆に民の手をつけられない暴動が引き起こされてしまう。そして彼の取った道は…医学だった。

島原の乱を抑えるために何とオランダ人を使って自国の民を砲撃する幕府。

秀吉の朝鮮出兵に駆り出され悲惨な戦乱を体験した鬼塚監物は最後まで戦った。

本の表紙はhttp://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/28797981.html
にあります。

高校時代、遠藤周作の「沈黙」を読んでキリシタン弾圧のむごさに恐れおののいたものだ。

天草四郎ものではわらび座や、劇団☆新幹線ミュージカル、大川橋蔵沢田研二の映画、思い出します。



「出星前夜」は縄田一男「こみあげてくる嗚咽を抑えることはできないだろう」と帯にある。


長崎奉行竹中重義の母と息子まで治療したガブリエル・マグダレラ。

その奇蹟的な治療で知られたイスパニア人修道士マグダレラまで火刑にしていたとは。

すべての民にとって不満のない世などあり得ない。
しかし民を死に追いやる政事のどこに正義があるというのか。

これは現代にもあてはまるではありませんか。

このサイトの方が書いてることが私もポイントだと思います。
http://www.jcj.gr.jp/shuppan/jcj08/jcj914.html
 これまでの「島原の乱」を扱った小説のほとんどが、益田四郎ないしはその父・益田甚兵衛の視点から描かれたものだったのに対し、まったく別個の視点を取り入れたことで、『出星前夜』は、いままでに読んだことのない、新しい「島原の乱」を描き出すことに成功したのです。
 ふたりの主人公は、島原の乱に直接関係するのですが、その関わり方は、まったく対照的です。
 戦うことは血を流すこと。それだけは絶対に避けたいと考え、村人たちに臆病者呼ばわりされても、ひたすら圧政に耐えて収穫の増量のみに汗を流すのが、庄屋・甚右衛門。
 かたや、激しい反抗心で権力に立ち向かい、村人たちの蜂起のきっかけを作るのが若い寿安。ところがこのふたり、その後の歩みはまったく逆の方向となります。
 あれほど流血を忌み嫌った甚右衛門は、戦いの前線に立つリーダーになり、反抗心の塊であった寿安は、戦いを捨てて別の道に歩み出します。なぜそういう進み行きになったのか、それがこの小説の大きな主題です。
 人の心の不思議さ、生き方の違い、そういったものが、これほどまでに描き分けられている小説には、そんなにお目にかかれるものではありません。
 戦いの描写は、とにかく凄まじい。特に、篭城してからの蜂起軍と寄せ手の幕府軍(各大名の連合軍)との凄絶な死闘は、鳥肌立つほどの迫力です。まるで画面が眼前に現れるような描写力、私は息をのみつつページを繰りました。

 <戦というのは、何よりも殺人に慣れることである。当初は殺される恐怖心から無我夢中で人をあやめるのだが、必ずその後でひどい吐き気に襲われ、両手の返り血を洗う夢に悩まされた。そして次第にそれにも慣れて、反射的に平然と殺人をおこなうようになる。あんな荒涼とした日々に戻りたいとは思わなかった。しかも、いざ内戦ともなれば一番被害をこうむるのは子ども女、老人であることも知っていた。>(102ページ)

 これが、かつて秀吉の朝鮮兵役に従軍したこともある甚右衛門の認識でした。それを真の髄まで知っていながら、彼は蜂起軍の将として立たなければならなかった…。
 先頭になって戦い、そして滅んでいく。凄惨な戦と、虚しい滅亡。甚右衛門の、切ない末路です。
為政者のあまりの無能。権力を振り回し、搾れるだけ搾り取ろうとする、政治などとはとても言えない政治。それが、両軍併せて数万人の死者を生む。
 むろん、背景にはキリシタン禁制という宗教が絡みます。しかし、圧政に耐えざるを得なかった民にとって、信仰は<生きること>の同義語であったのです。そうでなければ、飢えと抑圧の中で、耐え続けることなど出来なかった。その忍耐が限界点を超えたとき、信仰は<死ぬこと>へと変わっていく。
 累々たる屍の上を吹く風が、本のページの上をも吹きすぎていきます。しかし、決して不快な後味はありません。
 読んでみてください。
 作者の希いが見えてきます。