riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">龍馬伝 第6回「松陰はどこだ?」</span>


追記しました。
歴史の歪曲、劇画のようだとお怒りの方もあるようですが今回の大河ドラマは第一回目から観ています。
坂の上の雲」は警戒して観ていたのですが。

主演の福山雅治 がとってもピュアで可愛い~ほとんど福山さんの事を知らなかったのです。
子供の時からの龍馬を観たのが珍しくて。
両親や兄弟に可愛がられていて幸せそうでした。
龍馬は日本で初めてハネムーン実行したと何かで読みました。

龍馬は死後有名になった人物だという。
歴史の本はすこしは読んでも「竜馬が行く」などは未読です。
龍馬の家は階級的には土佐藩武家の最下層にあたる郷士であったが、本家の才谷屋は土佐有数の豪商であり、下手な上士よりは裕福な家庭環境にあったという。

第1話「上士と下士」厳しい階級制度のあった土佐藩
岩崎弥太郎と緑色の川に落ちるシーンなどあまりに汚いので心配になったそうです。
龍馬の母の事も知らなかったのですがなんと元バレリーナ、『Shall we ダンス?』の草刈 民代 が演じていてびっくり。雨の中、上士に土下座してすぐ死んでしまったけど。龍馬は37才の時の子供。
元宝塚の 大鳥れい も龍馬の姉として出演しているのも気がつかなかった。
香川照之岩崎弥太郎大森南朋武市半平太寺島しのぶ(坂本乙女) など芸達者がそろっていて見ごたえあります。

第2話 農民と土嚢運んで泥まみれ、貧しい母子と心通わせる優しい龍馬
広末涼子演じる平井加尾 は龍馬が好きなので縁談断り,きったない岩崎弥太郎の塾で勉学に励むというのは史実なんでしょうか、興味あります。

貫地谷しほりの(千葉佐那 が[黒船見て剣をやめると思うのは坂本さんだけと龍馬を引き留めようとします。彼女も兄にはっきり龍馬が好きと言っていました。

桂小五郎谷原章介 最近観た松本清張ドラマスペシャル「顔」や映画ののだめもうまかったですね。)も
吉田松陰も今まで観てきたイメージの学者タイプと全然違って笑えるぐらい面白い。松陰は高杉晋作のドラマ観た大昔から知っていましたが今回は生瀬勝久
毎度ですが大浦みずきが演じた松陰はさぞかし知的だったでしょう。

桂は毎夜黒船が夢に出てきて眠れず目の下にクマ、黒船の模型作ってる!

松陰は「失敗するかもしれないが異国をこの目で見たくてたまらない、捕まっても何もしないでいることより行きたい気持ちがはるかに強い」 この台詞イイデスネ。
「生瀬さん実は、前の日は舞台の千秋楽だったらしくて、打ち上げで朝まで飲んでたらしいです。
 ほとんど寝ずにあの撮影をやったんですよ。いやーー役者魂ですね」
生瀬勝久を高く評価していた福山雅治

吉田東洋は前衛舞踏家田中泯たそがれ清兵衛」「メゾンドヒミコ」「武士の一分」で圧倒的な存在感
田中泯の映画

次回は父の最期、香川照之お勧めの名場面
公式サイトで予告編が見られます。

脚本・ 福田靖 、演出・大友啓史(ハゲタカ、よかったです)
福山龍馬に反響の声 
第1話「上士と下士」では、厳しい階級制度のある土佐藩を舞台に、母・幸の死を経験する龍馬の幼少期から、剣術を磨きたくましく成長した青年期の姿を、香川照之演じる岩崎弥太郎目線で展開した。龍馬の大器晩成ぶりを感じさせる第2話は、
福山が牛の糞や尿が混ざった泥水の中でひざまずいたり転んだりする場面があり、体当たり演技が光っているという。

 さらに鈴木氏は「三味線を弾いて歌っているのも必見。ミュージシャンとしての才能も垣間見れます」と“歌手・福山雅治”の魅力を伝えられる場面にも期待を寄せる。

エンタがビタミン♪
「まるでミニ舞台」福山雅治が「龍馬伝」撮影の苦労を語る。福山雅治
「14話あたりの脱藩前後の話は20ページ近い台本を一気に撮影した」
と長丁場の撮影を振り返った。





プロデューサーのことば…鈴木圭

 「龍馬伝」が描こうとしている坂本龍馬像は、「ネバーエンディングな人」。分かりやすく言えば、「進化し続ける人」「自分に終着点を設けない人」「果てしない伸びシロを持った人」です
勝海舟高杉晋作桂小五郎西郷隆盛、、、名立たる男たちを突き動かした龍馬の口ぐせ、乙女姉さんや妻お龍、寺田屋お登勢に大浦慶、、、凛々しき女たちを魅了した龍馬の口ぐせとは?考えるだけでなんだかワクワクして来ます。今回大河ドラマ「「黒船じゃあ!!」の一発で海外列強の脅威と日本側の動揺を表現するのが常ですが、黒船を見た当時の人々の気分は、本当のところどうだったのでしょうか?弁当を持った多くの小舟が物見遊山にこぎ出していったという史実も残っているくらいです。そっちの方がなんだか納得できるし、面白い。リアルな歴史の姿、活き活きとした人間像に限りない興味を覚え、想像力をかきたてられます

龍馬だけが、「共食いの構造」から、ちょっと離れたところに存在しているのはなぜでしょうか。龍馬の周りにだけ、爽やかな風が吹いている印象があるのはなぜでしょうか。
僕はそこで一つの仮説を立てています。それはきっと、龍馬ただ一人が、あの時代断固として「オリジナリティ」を大切にした、極めて稀有な日本人だったからではないかと。「今自分に出来ること」と「出来ないこと」、「今自分がやろうとしていること」と「そのために必要なこと」、「自分にしか出来ないこと」と「他人でも出来ること」・・・龍馬だけが、実は時代に流されない「自分」という「オリジナル」に立脚した、極めて醒めた「自己分析」を行っていたのはないでしょうか・・・。自らの「好奇心」と「向上心」を武器に海を渡った、イチロー選手や中田選手のように。
 新しいことをはじめようとするとき、そこには、必ず対抗勢力や批判が生まれます。メディアの発達した現代社会では、それらを有効に活用し、どちらが大きな声を上げるか、「情報戦」をどう制するかが勝敗やその評価を決する大きな分岐点ともなる。一方で「敗者」にも、メディアによる「敗者復活戦」や「反論の機会」が保障されています。現代のような「メディア」が存在しなかった「幕末」という時代。「自分」以外の一人一人と向き合い、時代の流れと向き合い、龍馬は「自己発見」を淡々と進めていた。何万キロもの道のりを移動し、自分自身が「メディア」となって。時には「インタビュアー」として人の声にじっと耳を傾け、時には自らが取材される側に立って、自らの考えを確認しながら、見聞を広めていった。どんどん「外」に出て行く彼の行動力は、内に内に篭っていく現代的な「内向的な青春像」とは一線を画しています。ひたすら外に出て、他者とぶつかり合うことで、龍馬は「龍馬オリジナル」を見つめようとしていたように思うのです。そこに、今こそ「永遠の青春像」として龍馬を世に問う意義があると思うのです。

 「ハゲタカ」冒頭。主人公の鷲津がプールに浮かぶ映像を思い浮かべたとき、鷲津は「失われた十年」に殉じ、十字架に磔にされたイエス・キリストであるという仮説を立てました。これに準じて考えると、暗殺の凶刃に倒れた龍馬も、幕末という時代に殉じ、やはり磔にされたキリストという解釈が成り立つともいえます。ですが、龍馬暗殺を、幕末という「時代」に還元した特異な出来事として考えることは、なぜかそぐわないような気もするのです。

 そういった形で、彼を「時代の殉教者」として祭りあげるのは、龍馬に失礼であるという気が、なぜかしてしまうのです。

 なかなか超えられないと思っていた壁も、ひょいと越えてみると、それは何でもないものだったりする。もしかしたら、単にそれを「越えさせたくない人たち」がいただけかもしれない。易々と超えてしまう龍馬を「気に入らない人たち」がいただけかもしれない。龍馬の暗殺は、密室政治のの匂いや唐突な、通り魔的な匂いがする一方で、極めて個人的な、「嫉妬」のようなものが背後で蠢いていることを感じさせたりもします。そう考えると、誰が龍馬を「暗殺」してもおかしくはない。それは、決して歴史的事実をないがしろにするという意味ではありません。新しい一歩を踏み出そうとした龍馬を「暗殺」する「動機」は、時代を超えて、場所を越えて、誰もが十分持ちえるような普遍的な感情であるような気がするのです。今の時代であれば、メディアが龍馬を(事実上)抹殺してしまう可能性もあると思うのです。

 決して単なる「犯人探し」ではなく、龍馬に対する「感情の代弁者」として、幕末屈指の経済人である岩崎弥太郎を始め「龍馬暗殺」に部外者ではいられない多くの登場人物たちを登場させたいと思っています。そして、それは、天に何かを賦与された者に対する、私たち自身の姿の投影になるかもしれません。