riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">イサムノグチの母の映画公開、中村獅童登場♪</span>



  
 



11月に公開されるイサム・ノグチの母 を描いた映画レオニーエミリー・モーティマー主演 をあいち国際映画祭で観ました。一般公開は初めて。
明治村にある帝国ホテル も撮影に使われています。


  

松井久子監督 が登場するとその若さ、女優さんのような華やかさに驚きました。肩を出し背中でクロスする赤紫のワンピース。お似合い!
監督はユキエ、折り梅に続く三作目。日米合作映画!

上映後80歳台の女性が日本にこのような監督がいて嬉しいと発言された通り世界的な映画賞受賞されて監督もされた田中絹代の時代から隔世の感
があります。田中は出演映画において世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てを受賞しており、三冠を達成している。また、日本で二人目の女性映画監督でもある。

中村獅童は私生活をオーバーラップするような箇所がありますが、監督はスキャンダルは作られたものとかばってました。
この役は歌舞伎役者の彼でしかできないと初めから決まっていたがヒロインの方はぎりぎりまで決まらなかったそうです。

昨日獅童さんのお父様の三回忌でこの映画を皆さんで鑑賞したそうです。

字幕の戸田奈津子さんはノーギャラ、

音楽は私の好きな映画ネバーランドアカデミー賞も受賞されたヤン・A.P.カチュマレク、頼み込んだそうです。
これらは会場の質問の答えです。

イサムノグチというと、私にはミュージカル李香蘭」の山口淑子と結婚していたことが最初にインプットされています。
写真で観たお二人の芸術家ぽぃ和風の家!
この映画でも登場するインテリアが気になります。時代考証などしっかり出来てるのではないでしょうか。

野口米次郎のアメリカでのアパート付近はまるでウエストサイドストーリーの世界。トニーとマリアのバルコニー!こんな治安の悪い所にと言ってました。

米次郎はあの時代の男性だからあそこまで無責任なのでしょうか。
レオニーが妊娠すると嘘だとキレル、同時に他にも二人の女性と交際、レオニー自身もシングルマザーの娘。

今ならまだしも結構古い体質のアメリカで高い教育を受けたレオニー(津田梅子小泉八雲の妻セツも出てきます!)も苦労します。
すごく英雄的と言うわけでもなく自然体のヒロインに親近感を抱くでしょう。

先日の新聞で90歳の山口さんの記事が載りました。大スターの美貌♪


 

 日米合作映画「レオニー」(松井久子監督)の国内撮影が今月、愛知県犬山市で始まった。彫刻家イサムノグチの母レオニー・ギルモア(1873~1933)の生涯を描いた話題作だ。

 19世紀末のニューヨーク。名門女子大を卒業したレオニー(エミリー・モーティマーさん)は野口米次郎(中村獅童さん)と英語詩を共作し、やがて恋に落ちる。だが、妊娠を知った野口は帰国。レオニーは日本に渡り、シングルマザーとしてイサムを育てていく。

 松井監督にとっては戦争花嫁のその後を描いた「ユキエ」、介護と家族の再生をテーマにした「折り梅」に続く3作目。「イサムノグチの伝記を読んで、どんなに不幸が続いても、前向きに運命を切りひらいていくレオニーに興味を持った。女性本来の強さを問いかけたかったし、明治の日本や庶民の暮らしの美しさを映像にしたかったんです」

 4月に米国でクランクイン。カリフォルニアなどで5週間の撮影を終え、野口米次郎の出身地・愛知へ。明治村や国宝の茶室・如庵で順調にロケを重ねた。

 ロンドン出身で、ハリウッド映画「ピンクパンサー」などで活躍中のモーティマーさんは初来日。「生と死のとらえ方に、西欧とは違う静けさや落ち着きがある。オリジナリティーあふれる物語で、女性の一生を演じられることにやりがいを感じます」と話す。

 一方、獅童さんは米次郎について、「身勝手な人だと思うけれど、芸術的な才能と人をひきつけ魅力があったからこそレオニーも訪ねてきたのだと思う。そこに重点を置きながら、台本にない部分をふくらませていければ」と意気込む。

 構想から7年。「米次郎は獅童さんでなければ」という監督の思いも大きい。「世界に発信できる映画にしたかった。そのためには彼の経験と歌舞伎役者のDNA、存在感が必要でした」

 公開は来年の予定。「米国や欧州での先行上映をめざしたい」と監督は話していた。他に原田美枝子さん、竹下景子さん、吉行和子さん、中村雅俊さん、勅使川原三郎さんらが出演する。
(2009年6月13日 読売新聞)

赤レンガの建物は名古屋市市政資料館です。

映画祭の行われているウィルあいちの正面にあります。
内部のステンドグラスです。


  
 

大正11年(1922)に当時の名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設されて以来、昭和54年(1979)に名古屋高等・地方裁判所が中区三の丸一丁目に移転するまで、中部地方における司法の中心として60年近い歴史を積み重ねてきた。