riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">反原発の闘い、執拗な買収工作や様々な嫌がらせを受けながら</span>





勇気ある方々の孤独の闘いに学びませんか。絶望ばかりしてはいけないと思いました。

コピペさせてもらいました。



今日の朝刊に北村博司さん が2001年に出版した

原発を止めた町 新装版――三重・芦浜原発三十七年の闘い

が再出版されました。





◇◆海の博物館長 石原義剛◆◇


 芦浜は静かだった。転石の浜に春の波がゆったりと打ち寄せ、摺鉢を半割りにしたような地形に沿った新緑の森にウグイスの若々しいさえずりが澄んでいた。そこには何事も起こっていなかった。


 3月11日から1カ月ほど過ぎたある日、小高い径からしばらくの時間、私はただ穏やかな芦浜を見下ろしていた。


 私が芦浜原発計画に反対する漁業者の闘いを知るようになったのは、40年近く前の1972年。その10年前、4年間の激しい反対運動が当時の知事の白紙還元発言で一応収束した後だった。博物館の仕事として、初めて原発反対を貫き通した漁業者の運動の記録を残しておきたかったからだ。しかし、まだ原発建設問題が決して終わったわけではないとはっきり知った。電力企業の推進活動は水面下で続いていたのだ。


 それから20年、熊野灘の漁民だけではなく県民が加わった運動に広がった芦浜反原発闘争は激烈に繰り広げられ、2000年、ついに白紙撤回された。37年に及ぶ辛い、むなしい闘いであった。


 それから11年が過ぎた今年2月、電力企業は3度目の原発立地推進を言い出した。この間も推進工作はしつこく続き、漁業現場は疲弊してしまっていた。このままだと漁業者の反対運動は望み薄ではないか――。私の気持ちはなえていた。


 3月11日、東日本大震災による大津波は、一瞬にして全てをふっ飛ばしてしまった。原発のもろさも、電力企業の利益最優先もあからさまになった一方、三陸の漁業者をも壊滅的に打ちのめした。


 海を頼り、信じて暮らしてきたのに、海なる自然は残酷な仕打ちで、人間を踏み潰した。


◎美しい芦浜へは大紀町錦からか、南伊勢町古和浦からほぼ山道を1時間で行けます。お弁当を持ってどうぞ。





大間原発の敷地内に建つあさこはうす]お金では買えない「宝の海」を次世代に

「母は先祖代々続くまぐろ漁師の家に育ち、この海の素晴らしさと大切さを誰よりも良く知っていました。土と海から命をもらって育った母は、本能的に原発に危機感を持っていたのです。だから周りの人たちがみんな買収され、たった一人になっても原発に反対し続けたのです」

 「本当に辛くて寂しい思いもしたでしょう。執拗な買収工作や様々な嫌がらせを受け、最後は村八分にされました。でも、命を何よりも大切にする女だからこそ、母は最後まで頑張れたと思います」。そう語る厚子さんは、あさ子さんの遺志を引き継いで原発建設を何とか止めたいと考えている。

 6月19日、大間原発の原子炉設置許可処分に対する「異議申立書」が経済産業省原子力安全・保安院原子力安全審査課に提出された。全国から集まった申立人4541名のうち、2154名は函館市民だ。中心となった「大間原発訴訟の会」では、工事中止を求める民事訴訟の準備も進めている。

 函館は大間からわずか18キロ。原発が完成すれば、津軽海峡の対岸に原子炉建屋が見えるようになる。万一事故が起きれば、人口約28万の函館市民は真っ先に被害を受ける。函館市議会も2007年7月、『大間原子力発電所の建設について慎重な対応を求める意見書』を採択している。

 地元大間では孤立している厚子さんだが、函館や全国で脱原発に取り組む様々な人々に支えられている。「一人でも多くの人に『あさこはうす』を訪れてもらいたい。ここで多くの人とキャンプやイベントをすることは、母の夢でもありました」。

 大間原発の建設を許可した国への「異議申立書」。その冒頭に綴られた厚子さんの想いは、母の遺志に守られながら「あさこはうす」で育まれていくだろう。

 「土地から穫れる野菜と海から捕れる海産物で、私たちは生きてゆけます。その豊な海と土地を子や孫に残したいというのが母の切なる希望でした」「大間の海と土地をきれいなまま子や孫の世代に残すために、大間原発に反対します」 




青森県大間で開催された大MAGROCKって?-原発建設を人知れず拒み続けていた「あさこはうす」




011年5月21‐22日、本州最北端に位置する青森県大間町では「大MAGROCK」と題する「反核ロックフェス」が開催された。

原発建設予定地に建つログハウス「あさこはうす」

2008年5月27日、電源開発株式会社により建設が着工された大間原子力発電所。その敷地内に「あさこはうす」と呼ばれるログハウスが建っている土地がある。

炉心予定地から約300mにある故熊谷あさ子さんが所有していた未買収の土地だ。

大間原発の話が持ち上がった1976年以来、近隣住民が次々と土地の買収に応じていく中、熊谷あさ子さんだけが自分の土地を手放さず、原発建設を長い間拒み続けてきた。

熊谷あさ子さんが亡くなった今は娘の小笠原厚子さんが遺志を受け継ぎ、その土地を守っている。


「私はここを離れていました。母はあれほど電力会社の圧力を受けているなんてこと、まったく言いませんでした。私に迷惑がかかることを恐れていたんでしょうね。炉心部分の土地を持っていたので金積み上げて落とそうとしたらしい。母を攻略するための専任社員が自動車の中で縛られていて、手付金を強盗に襲われた事件があったのですが、その額は8000万円でした。警察が縛られる方がおかしいので追求し、事件はその社員の自作自演の狂言強盗だったことが判りました。母は、大間の海は魚の海だ。この海がある限り食わせて貰える、と当然のことを言って突っぱねていたのです。お次は村八分です。それまで言葉を交わしていた人達が見向きもしなくなった。母と口をきく人は仕事を取り上げられるからです。それが一番つらかったようです。脅しもあった。屈強な男2人が、母が農作業している所にずっと張り付いているのです。炉心予定地には共有地もあったのですが、母はその売却も拒みました。共有地の場合、全員の合意が必要です。しかし、偽の印鑑を押して売却しようとした事件もありました。

上関原発建設でも同じ事が行われ裁判で翻されたそうです。結局電力会社は2003年ここの用地買収を諦めて、炉心をここから250メートル離れた所に設計を変更、2008年に原子炉設置許可されるや建設を始めました。母はその用地買収を諦めた2003年に亡くなりました。それまで、精神的な重圧のためかティックの症状だけはありましたが、元気溌剌としていたのに突然。死因はつつが虫病。土の中に住む虫で、昔からつつが無いということわざの元となっている、死に至る毒虫です。この土地での発病は40年ぶり。つつが虫の侵入口が母の首に見つかったそうです」。

そして、熊谷厚子さんは力強く言った。「私も娘もこの土地を守り続けます」と。

追記


あさこはうす は大間原発建設予定地内、炉心予定地から200mのところに建っている。この
原子力発電所は、フルMOX燃料を使用する世界初の原発になる予定だ。ちいさなログハウスと
ご家族の畑である敷地の外では「日立」と「清水建設」が大きな旗を掲げ何本もの巨大クレー
ンを操り建設作業を始めている。あさこさんの所有する敷地範囲、というのははっきりと分か
る。なぜなら県道からあさこはうすに至る約1kmの私道とその敷地は


ぜ  ん  ぶ  フ ェ ン ス で 囲 ま れ て い る か ら

反対集会というカテゴリからもうすこし間口を広げ「いつかは世界中の反核アーティストが集
まるロックフェス」をイメージしてはじめた世界一ちっちゃなロックフェス‥


絵本もあります。



風の中を今日も行く―ハルコおばさんの願い