riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">久留米の青木繁旧宅訪問</span>





まだ山鹿、博多、久留米の記事も途中なのですが先日、美術番組で

青木繁文人たちの愛した画家~が放送されました。

子供の時に画集で観た「海の幸」やロマンチックな神話の世界の絵が好きでした。

やはり好きなラファエル前派に繋がっていました。








入ってすぐ「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」の複製が出迎えてくれます。

とても綺麗に修復されています。無料もうれしい。




明治後期の画壇を彗(すい)星のように駆け抜け、28歳という若さで亡くなった、夭折(ようせつ)の天才画家・青木繁。その没後100年を記念した回顧展が開かれています。代表作「海の幸」を始め、油彩70点、水彩や素描170点。さらに、書簡、写真など、300点にのぼる空前の規模の出展です。

青木は生涯、作品のテーマを、古事記日本書紀などに描かれた「神話」の世界に求めていました。写実的な風景画や美人画が主流だった当時の画壇は、神話の世界を豊かな想像力で表現した青木の作品に驚愕(がく)しました。さらにその作品は、浪漫(ロマン)主義文学を展開していた明治30年代の文壇にも大きな衝撃を与えます。夏目漱石をはじめ蒲原有明与謝野鉄幹など多くの文人たちに称賛を持って迎えられました。青木の魅力とは一体何だったのでしょうか。

その作品や残された文章、親交を結んだ文人との関わりから、青木の生涯を見つめます。

繁はたねとはついに正式には結婚しなかったのですね。

ハナ肇クレイジーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭堂の息子、つまり繁の孫!


落選して故郷に帰り、はかない命でした。落選にめげず自分の道を進んでくれたら‥

奄美を描き続けた画家 田中一村や久留米で見た高島野十郎熊谷守一も孤高の画家
ですね。

好きな画家にはこういう方が多いです。

独学で絵の道に入り、透徹した精神性でひたすら 写実を追求。終生家族を持たず、画壇とも一切関わらず隠者のような孤高の人生を送った 高島野十郎..





高島野十郎展と同じ久留米のブリヂストン美術館でに青木繁大賞展も見学しました。

今日レンブラント展見たのですが常設展に熊谷守一の風景画がありうれしかったです。

熊谷守一は、青木繁と美術学校で、同期で仲が良かった。

熊谷守一は28でなくなった青木とは対称的に長命。

家からほとんど出ない生活で、金や名声に一切関心はなく「現代の仙人」と言われていた。

文化勲章を辞退。勲三等叙勲の内示も辞退。
さすがです。

熊谷、小川芋銭香月泰男などの近代日本絵画の大コレクターであった名古屋在住の木村定三は愛知県美術館にコレクション寄贈、その発表の翌日、木村は亡くなった。。


愛知県美術館に熊谷のコレクション寄贈、その発表の翌日、木村は亡くなった。






この雨戸を開け閉めを係りの女性が実演してくれて、バスの中で女性たちが青木繁旧宅の雨戸はどうのこうのと言っていたわけがわかりました。

なんと言って説明すればいいのか、初めて観る雨戸でした。

直角に雨戸が動くのです。雨戸の一部が宙に浮くようにして。












大通りにバルザック像が!




パリのバルザック邸、ロダン邸、フジタのアトリエ、礼拝堂などに行くことが出来たのは幸せでした。





以前、さなえさんに連れて行ってもらった東京駅近くのブリヂストン美術館で青木作品を見たときはここにあるのかと驚きました。


青木は久留米出身で久留米はムーンスターブリヂストン企業城下町なので当たり前だったのに。

鳩山さんはブリヂストン令嬢だったママから毎月5000万円のおこずかいを貰っていたんですね。

肝の青木繁京都展を見逃してしまいました(_ _|||)

追記
JR久留米駅の近くに馬の絵で有名な坂本繁二郎の生家が復元されているのですが見学する時間がありませんでした。

坂本は青木の家より上流の武家でした。

坂本のアトリエは、石橋文化センターの園内にあり見学出来ました。

青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。

上述のように、坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であった。幼児から「神童」と持てはやされていた坂本は、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から、上京を決意した、とするのが通説である。同じ1902年の11月から12月にかけて、坂本、青木繁および同郷の画学生・丸野豊の3名は連れ立って群馬県妙義山・信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。青木が1911年(明治44年)、満28歳の若さで死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。

坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようだ。坂本の死後、遺品のなかからは青木が画学生時代に描いたスケッチ等の未発表作品60数点が発見された。坂本がこれら青木作品の存在を誰にも知らせず、数十年に亘って秘蔵していた理由は明らかでなく、さまざまな推定がなされている。
Wikiより