<span itemprop="headline">久留米の青木繁旧宅訪問</span>
まだ山鹿、博多、久留米の記事も途中なのですが先日、美術番組で
子供の時に画集で観た「海の幸」やロマンチックな神話の世界の絵が好きでした。
やはり好きなラファエル前派に繋がっていました。
入ってすぐ「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」の複製が出迎えてくれます。
とても綺麗に修復されています。無料もうれしい。
明治後期の画壇を彗(すい)星のように駆け抜け、28歳という若さで亡くなった、夭折(ようせつ)の天才画家・青木繁。その没後100年を記念した回顧展が開かれています。代表作「海の幸」を始め、油彩70点、水彩や素描170点。さらに、書簡、写真など、300点にのぼる空前の規模の出展です。
青木は生涯、作品のテーマを、古事記や日本書紀などに描かれた「神話」の世界に求めていました。写実的な風景画や美人画が主流だった当時の画壇は、神話の世界を豊かな想像力で表現した青木の作品に驚愕(がく)しました。さらにその作品は、浪漫(ロマン)主義文学を展開していた明治30年代の文壇にも大きな衝撃を与えます。夏目漱石をはじめ蒲原有明、与謝野鉄幹など多くの文人たちに称賛を持って迎えられました。青木の魅力とは一体何だったのでしょうか。
その作品や残された文章、親交を結んだ文人との関わりから、青木の生涯を見つめます。
繁はたねとはついに正式には結婚しなかったのですね。
落選して故郷に帰り、はかない命でした。落選にめげず自分の道を進んでくれたら‥
好きな画家にはこういう方が多いです。
熊谷守一は28でなくなった青木とは対称的に長命。
家からほとんど出ない生活で、金や名声に一切関心はなく「現代の仙人」と言われていた。
愛知県美術館に熊谷のコレクション寄贈、その発表の翌日、木村は亡くなった。
この雨戸を開け閉めを係りの女性が実演してくれて、バスの中で女性たちが青木繁旧宅の雨戸はどうのこうのと言っていたわけがわかりました。
なんと言って説明すればいいのか、初めて観る雨戸でした。
直角に雨戸が動くのです。雨戸の一部が宙に浮くようにして。
大通りにバルザック像が!
鳩山さんはブリヂストン令嬢だったママから毎月5000万円のおこずかいを貰っていたんですね。
肝の青木繁京都展を見逃してしまいました(_ _|||)
坂本は青木の家より上流の武家でした。
坂本のアトリエは、石橋文化センターの園内にあり見学出来ました。
青木繁とは、同じ久留米の出身で、生年も同じことから、比較されたり、並べて論じられることが多い。文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論をいくつも著している。Wikiより
上述のように、坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であった。幼児から「神童」と持てはやされていた坂本は、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から、上京を決意した、とするのが通説である。同じ1902年の11月から12月にかけて、坂本、青木繁および同郷の画学生・丸野豊の3名は連れ立って群馬県妙義山・信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。青木が1911年(明治44年)、満28歳の若さで死去すると、坂本は青木の遺作展の開催や画集の刊行のために奔走した。
坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようだ。坂本の死後、遺品のなかからは青木が画学生時代に描いたスケッチ等の未発表作品60数点が発見された。坂本がこれら青木作品の存在を誰にも知らせず、数十年に亘って秘蔵していた理由は明らかでなく、さまざまな推定がなされている。