riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">小松左京とOSK果てしなき流れの果てに</span>





今日本が沈没するような気分ですが先月小松 左京氏がお亡くなりなってしまいました。

小松さんは今の日本をどう思っていらしたのでしょうか。

私はSF小説は子供の時に読んだぐらいなのですが、

以前は大阪NHKOSK日本歌劇団

(実力派の少女歌劇で京マチ子笠置シズ子たちが活躍、宝塚歌劇団は自らを世界で唯一の女性だけの歌劇と言ってますが、中国にもあります。) の舞台を放送してくれていました。

今はとても残念なことに放送がありません。

OSKは京都南座などで公演しています。

OSKは1923年(大正12年) 5月、道頓堀に大阪松竹座が開場、松竹楽劇部の第一回公演「アルルの女」が上演されました。この頃の公演は、映画と映画の合間に、クラシックの洋楽にあわせてバレエ風の洋舞を踊る芸術的なものでした。

私が初めて生で観たのが小松 左京氏の『果しなき流れの果に』
でした。今はない愛知県の劇場です。

今もあの主題歌が頭の中を流れています。

♪果しなき流れの果に たどり着いた愛の旅路~



もうそのビデオを観ることは出来ません(・ω・、)




そのときテレビ中継で小松さんが「こんな難しいものをどうしてOSKがやるのかと思った」
ニコニコしてインタビューで答えていらしたのです。

小松さんの代表作には時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。



主演は東雲あきら 暖かい雰囲気と確かな歌唱力・演技力で私はいっぺんにファンになりました。

原作は読んでいないのですが現代から始まって古代、ベトナム戦争、未来と時空を越えて活躍する主人公とひたすら彼を待つ恋人がいじらしくて、とても楽しい舞台でした。

ベトナム戦争が出てきたのも小松先生がベ平連創立時の「呼びかけ人」だったからですね。

尊敬する小田実澤地久枝と繋がっています!

OSKのその舞台のフェナーレは娘役さんたちが皆エトワールというぐらいうまいのでした。

ラインダンスもOSKは凝っていてそれは見事だと思いました。


仁左衛門丈のお父さんが指導された大津皇子や能レビュー恋夢幻 、アップルフェルランド物語 ブルースに抱かれて眠れ など見ごたえがある舞台でした。

好きな作品は吉峯暁子のホンでした。

吉峯暁子先生はOSKの元座付き演出家にして「マツケンサンバⅡ」の作詞家、 レビュー、ミュージカル 作家

東雲さん引退後の「魔剣士」(99年)、「エル・アモール・グランデ」(2000年)、「闇の貴公子」(2001年)
なども観ましたが今は名古屋公演もなくて見ることが出来ません。

小松 左京(こまつ さきょう、1931年1月28日 - 2011年7月26日)は、日本の小説家。本名、小松 実(こまつ みのる)。

星新一筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家。1970年の大阪万博でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問を勤めるなど、執筆以外の活動を幅広いジャンルに対して行っていた。

兄は京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者になった人物で、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[2]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[3]。

少年時代は病弱で、スポーツには興味がわかず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[4]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[5]。

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った(戦後は柔道が禁止されたので、ラグビー部に転部した)[6]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという


1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」に。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した

http://ameblo.jp/gt400ng/entry-10968292809.htmlえんじゅのブログ様から引用させていただきました。

私の大好きな、もうおひとかたのSF作家、筒井康隆さんが当時のSFと、SF作家の地位の低さをギャグにして、
士農工商、SF作家」とおっしゃってましたが、私、この「果てしなき~」を読んだときに
その、あまりの深さに、三歩歩まず、、、っつか、、たぶんね、布団の中で読んでたんですが、
読み終わったとき、三歩歩むどころか、布団から宇宙空間へ、そして時空を超えて、懐かしい日本の原風景へ、、、という、とんでもない、長い時空間を漂ったような、、なんともいえない感覚を味わいました。
あの感覚は忘れられません。
布団から宇宙空間へ放り出されたような、そしたまた、その場所に帰ってきたような、不思議な感覚。
今でもはっきり思い出せます。小説で、あんな感覚を味わったのは初めての経験でした。
哲学的な、お話でした。「人は、どこからきて、どこへゆくのか」という根源的なテーマを、
時空を超えた、壮大なスケールで描き上げた、大傑作だと思います。
最後は、地球という星への、日本という国への、そしてふるさとの、風景への深い愛がありました





最後は同じ頃活躍されていた宝塚花組大浦みずきと朝香じゅん

私はこのお二人も大好きでした。

左は宝塚のアステアといわれたダンス抜群の大浦、右は大浦トップの時の二番手朝香、退団公演小さな花が開いたは今度再演されます。