<span itemprop="headline">今頃ですが半田のお祭りと赤レンガ建築など</span>
今頃ですが五年に一度のはんだ山車まつり 10/6・7日の2日間の来場者数53万人(実行委員会発表)の話です。
なんというパワーでしょう。
MSMさんの記事でたまらなくなり一人で車を飛ばしました。
前日は長野県の温泉まで日帰り、温泉ならいつでも行けるのに。
これは5年に一度、次の機会が私にあればよいのですが。
明治時代に「カブトビール」の醸造工場として建設された杉本健吉画伯もお気に入りだった赤レンガ。07年ににはここで杉本氏のアトリエが再現されました。
そのとき初めてこの建物内部に入ることが出来ました。
そのときの様子はこのサイトが詳しい。杉本画伯の絵もあります。
普段は入ることが出来ません。
1923年に旧制愛知県立工業高校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。1949年(昭和24年)奈良 東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。1970年 画壇よりの引退を表明。しかし、画家としての創作は続ける。 1987年 名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)
主な作品 [編集]
名鉄7000系パノラマカー(赤色(スカーレット))と名古屋市営地下鉄東山線(黄色(ウィンザーイエロー))車両の塗色を決めたり、青柳ういろうの社章(小野道風の故事をもとに、柳に飛びつくカエルの姿を図案化)や、中部電力(「電」を図案化)・名鉄百貨店(「名」を図案化)の社章(いずれも初代)、名古屋市営地下鉄のマーク(地下鉄のトンネルと線路を図案化)のデザインを手掛けた。また、東大寺が経営する東大寺学園(奈良市山陵町)において、中学棟・高校棟を繋ぐ「転心殿」を榊莫山と合作し、同校へ寄贈した。
エピソード [編集]
名古屋能楽堂が完成し、その鏡板(舞台の背景)の制作を担当した際、他の能楽堂では定番となっている老松を描くところを、杉本健吉は若松を描いたため物議を醸した。これに対し本人は 「できたばかりだから元気が良く若々しい松の方が似合う」「伝統に決まったものはない」と語っていた。後に老松の鏡板も描かれ、隔年で配置されている。
晩年「(やりたいことを)行えばいいんです。私の場合は自然の中でたわむれているうちに絵ができた。それが私の人生だった。」との言葉を残している。
渋滞中の車中からの写真です。