<span itemprop="headline">八重の桜始まりました~</span>
八重の桜、盛んに宣伝していましたが如何でしたか。
南北戦争から始まりなんだか泣けてきました。
日本も中国も無理やり開国させられて、中国はアヘン戦争に負け苦難の道、
日本は戦争への道へ!
韓国は日本が開国させました!当時から英米のサルまね?
そういえば風刺画にもサルそっくりに描かれていた威張る日本人。
ドラマは子役もさわやかで可愛い!
新島とツーショット写真もあります。
八重は力持ちでお相撲さんの様だと言われたり、日本のジャンヌ・ダルクとも。
それまで八重のことは知りませんでした(恥)
昨年の「清盛」も私にはとても興味深く、脚本、演出、演技、装置、衣装などにくぎつけ、後で玉三郎丈も絶賛されているのを知り嬉しかったです。
劇団新感線☆のアテルイはDVD観賞。
今日見た大沢さんのアテルイが馬に乗りながらの弓射る場面のリハーサルも思わずカッコイイい~と叫びたくなりました。
弓術の先生もファンクラブに入るとジョークを(笑)
大沢さん、イギリスなどに滞在。長期休暇を取ったのは正解ですね、日本のニュースも観ないようにして。
新島は早く亡くなりましたが八重さんはご長寿
晩年、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られた。次代を担う女性を大切に思っていた[1]。
夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードがたくさん残されている。京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態に置かれていた[1]。 悪妻、鵺、烈婦と評される。- 悪妻 - 夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗った。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものであるが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評された[1]。
- 鵺 - 同志社英学校の生徒にも新島先生を軽んじていると映り、当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と罵倒された[1]。
- 烈婦 - 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判し、世間より
- 「烈婦」と評された[1] WIKIより
新政府に敗北した時、頼母の母、妻、幼い娘たちまで自害したのに、
領主松平容保(ハンサムで途上すると多くのお女中がそわそわしたとか)、頼母は生き延びて…なんだか理不尽で直視出来ませんでした。
なぜそこまでするのか、敗戦のとき、サイパンなどで崖の上から身投げした日本女性の姿がちらつきます。
第二次世界大戦では負ければ、米英に凌辱されるから自殺せよと政府に教え込まれていたのでしょうが。
日本軍は食料も持たされず休暇ももらえず、戦わされた日本兵は
中国などで農民の食料や女性を奪ったので。