riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">田中正造も演じた三國さんが亡くなられました(涙)</span>


 
久しぶりに映画(アンナ・カレーニナ)を観て帰宅すると三國さんの訃報のニュース、思いがけずにうるっと来てしまいました。
画像は近所の八重桜並木のものですが風が強く、白い八重桜はボケボケでした。
連れ合い撮影
 
最近も三國さんの対談集で役者や差別、文化の話を読みました、脚本もものすごく読み込む方ですから宗教(親鸞の映画白い道も作り)文化の勉強も深い方だと思っていました。
 
釣りバカ、ファイナルも良かった生還を果たした上で役員勇退を宣言するスーさんの社員への言葉が圧巻。今の世の中の経営者たちには是非ここだけでも観てほしいくらいだ。
企業というものはそこで働く全ての人たちのもので、経営が傾いてもしも辞めてもらうような選択をする時は、役員からそうしなくてはいけないと、残りの役員たちに釘を刺した!!
その姿勢にホールを埋めた職員たちの拍手が、映画のシリーズのカーテンコールと重なっていくという手法に脱帽だ ぴかちゅうさん
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田中正造を描いた映画「襤褸の旗」は三國さんの風貌も立派ですからぴったりだったのですが
脚本がいまいちでした。74年公開の映画で当時はしりませんでしたが後から格安のビデオを求めました。元の価格は14800円!
 
心の遺伝子あなたがいたから では三國さんを尊敬する西田さんと共演
 
立派な生涯でした。
 
第一回は{{{三國連太郎 自分の好きなように  運命の人木下恵介}}}
昔から凄い存在感のある俳優だと思っていました。
兵役拒否で逃げたらお母さんが密告したとか、{{{田中絹代}}}の夫役のために健康な歯を抜いてしまったという話は聞いていました。
木下監督の{{{[陸軍]}}}最後に田中絹代が演じる母親が出征する息子を見送って延々と軍隊についていく場面、名場面です。
あの時代にあの場面は勇気が行ったことでしょう。
銀幕デビューのきっかけは大監督の{{{木下恵介}}}。慧眼ですね。
三國さんの動機は「ご飯が食べたい」。あのころは皆さんそうですよね。三船敏郎も。
木の下さんの紹介をしていると三國さん感極まりウルウル。司会の西田さんも泣きそうになるのを必死でこらえていました。
のちに{{{五社協定をやぶり「犬猫、三國入るべからず」}}}と張り紙されました。ほかの映画会社に出るとシャットアウトされた酷い時代がありました。
三國さんは勉強家で親鸞の映画{{{[白い道]}}}を制作。WOWOWで放送。途中までしか観ていません。
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{{{田中正造足尾鉱毒問題を映画化した「襤褸の旗(らんるのはた)」}}}は偶然。数年前街角でビデオを発見しました。先日徹子の部屋に{{{沢田研二の[魔界転生」}}}でとても色っぽい細川ガラシャ夫人を演じた{{{佳那晃子}}}が出ていて彼女もこの映画に出ていたことを知りました。何と西田敏行の妻になる役。この映画には{{{中村敦夫も「幸徳秋水」役}}}で出演。
随分前に観たので西田さんや佳那晃子さんが出ていたのも記憶にありません。
この映画ではトイレの近くの土まで食べちゃった三國さん、役者ですねえ。
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田中に心酔した私はフィールドワークにも参加しました。寒い夜行バスで秩父を訪れ渡良瀬河・足尾銅山跡(一言も鉱毒には触れていなかった!)なども見学、日本の公害訴訟第一号と言われる事件です。
豊かな山野が銅の精錬のために丸裸、鉱毒で多数の被害者が出たのに、{{{富国強兵目指す政府は放置、弾圧}}}しました。さらに村人の家を強制破壊してしまいました。
衆議院議員だった田中は明治天皇に直訴するも狂人扱いされました。田中の権力は嘘をつくなどの言葉は忘られません。{{{城山三郎の「辛酸 -- 田中正造足尾鉱毒事件」}}}(角川文庫)も感動的です。
以下は引用です。
1950年の暮れ、知人を頼って上京した佐藤政雄さん(後の三國連太郎さん)は銀座で声をかけられる。「お兄ちゃん、映画に出てみないか?」黒澤明と人気を二分していた木下惠介監督だった。そして1時間後、三國さんは映画「善魔」の主役に抜てきされていた。そして、このデビュー作で演じた新聞記者の名前・三國連太郎を芸名とし、俳優人生をスタートさせる。当時小学生だった西田敏行さんは、この作品を映画館で鑑賞。三國さんが演じた純粋な新聞記者のイメージが、そのまま今の俳優・三國連太郎さんに息づいていると言う。
生涯の師・木下監督と袂(たもと)を分かつ
演技未経験の三國さんはわずか30秒のシーンにも手こずり、思うような演技ができなかった。木下監督は三國さんに「自分の好きなようにやりなさい」とだけ言い、見守ることに徹する。かつて木下監督の下で助監督を務め、その人となりをよく知る横堀幸司さんは「(木下監督は)好きじゃないと目も合わせない人。三國さんのことがたまらなく好きだったのでしょう」と話す。
しかし、三國さん自身は俳優という仕事に身が入らなかった。木下監督は三國さんを俳優座で学ばせ、ようやく三國さんは“自分のこだわり”を探しはじめる。そして、個性を生かせる作品を求め他社の作品に出演。五社協定※を破り、恩師である木下監督と袂を分かつことになる。
※日本の大手映画会社5社が結んでいた各社専属の監督や俳優などの引き抜きを禁止する協定
師の教えを胸に映画製作で評価
三國さんは様々なジャンルの作品に参加。「異母兄弟」では、30代でありながら健康な歯を10本も抜くことで老け役を演じきった。その情熱は止まることを知らず、1972年には自主映画「岸のない川」を製作。この時も木下監督は「自分の好きなようにやりなさい」と言葉をかけた。
50代で自分のテーマを見つけた三國さんは{{{「親鸞・白い道」を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞}}}。その後、晩年の木下監督が三國さんを招き、これまでの作品を丁寧(ていねい)に批評してくれたという。以降も俳優として幅広い役を演じ続けた三國さんにとって運命の人となった木下監督。三國さんは「監督から最後にかけられた言葉はやはり{{{『思った通りに生きなさいよ』}}}でした」と涙を浮かべ、生涯の指針となったその教えを静かに振り返った。
お若い時から非常にハンサムで目立っていました。
最近観た[http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/30943668.html 釣りバカ日誌ファイナル]企業というものはそこで働く全ての人たちのもので、会長の私物ではない会社は自分のものではない経営が傾いてもしも辞めてもらうような選択をする時は、役員からそうしなくてはいけないと、残りの役員たちに釘を刺した場面がよかったですね。
 
明治時代、公害と環境破壊に対して闘った、足尾鉱毒事件の田中正造代議士の半生を描く。脚本は劇作家の宮本研、監督は「混血児リカ ハマぐれ子守唄」の吉村公三郎、撮影は「若者の旗」の宮島義勇がそれぞれ担当。

ストーリー

東京の北東約百五十キロ、渡良瀬川上流にある足尾銅山は、幕末、廃坑状態にあったが明治9年、資本家・古河市兵衛に買収されてから10年足らずで生産量日本一の大銅山にのし上った。時に日本は帝国主義の道を歩み始め、そのために強引な生産体制を敷いたため、銅が渡良瀬川にタレ流され、沿岸農村は、凄惨な毒と死の荒野と化した。銅山操業停止を求めて近代日本最初の大きな農民の闘いが広まった。その農民たちの先頭に、栃木県選出代議士の田中正造がいた。明治33年2月13日、請願書をふところに、農民の若き代表・一ノ瀬宗八や多々良治平らを先頭に、農民代表一万二千名が、東京に押し出して行った。しかし、利根川を渡る川俣で待ち受ける武装警官、憲兵の大部隊に苛烈な大弾圧を加えられた。--“川俣の闘い”である。東京では、帝国議会田中正造が、この事件を取り上げ、激しい鉱毒弾劾質問演説を行った。すでに、足尾鉱毒事件は全国的問題となっていた。“亡国に至るを知らされば即ら亡国の儀につき質問”--田中正造の肺腑をえぐる追及に対し、総理大臣山県有朋は「質問の趣旨その要領を得ず」と、答弁を拒否した。正造はついに憲政本党脱党、議員を辞職した。そして、正造が嫌っていた社会主義者幸徳秋水を尋ね、天皇への直訴文執筆を依頼した。こうして、、前代議士の天皇直訴で天下を驚かせた田中正造を、政府は“狂人”扱いにし放免した。以後、正造は毒に犯された波良瀬の大地と農民のもとに帰り、不屈の闘いを続けるが日露戦争ファシズム化の中で停滞を辿らざるを得なかった。すでに宗八の妹・タキと結ばれていた治平も召集されやがて復員。その頃、正造に師事した和三郎はキリスト教者から社会主義者の道へ、同じく正造に師事した女性記者・杉本華子は正造に訣別し、足尾鉱山労働者の闘いの中に入って行き、治平も妻子をおいたまま、その後を追った。明治40年6月29日、谷中村最後の日が来た。足尾鉱毒闘争の高まりの中で、古河市兵衛の妻は入水自殺するが、古河と政府は、洪水防止の一大遊水池開発の名目で、闘いの中心谷中村一帯の壊滅をはかった。なおも踏みとどまる窮迫の農民たちに、目をおおう残酷非情の士地収用法=強制破壊を執行していった……。それから6年後、孤独で巨大な先達・田中正造が息を引きとった。...
14日に90歳で死去した俳優、三國連太郎さんの長男で俳優の佐藤浩市さん(52)は15日、東京都内で記者会見し、「おやじの死に顔を見て、不思議と悲しい思いはなかった。この数年で一番りんとして、三國連太郎の威厳があった」と、時折声を詰まらせながら、亡き父をしのんだ。 
 
追記
三国さんと言えば兵役拒否したことが私には立派に思えました。母親が密告しましたが。