riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">文化のみち二葉館</span>

「文化のみち二葉館」は、「日本の女優第1号」と言われる川上貞奴が大正時代に住んで いた和洋折衷の建物を、名古屋市が移築復元 したもので、2005年2月8日にオープン しました。「文化のみち」を紹介し案内するとともに、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかり の ...
 

 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
徳川美術館の後は友人たちと貞奴邸(復元)へ。ステンドグラスと階段、ランプが豪華でしょう。
 

ひときわ目立つオレンジ色の洋風屋根、ステンドグラスの光がこぼれる大広間、そして落ち着いた伝統的な和室――東洋と西洋の文化が溶け合った大正ロマンの香り高い館が、名古屋城から徳川園にいたる「文化のみち」の拠点施設として甦りました。日本初の女優と謳われた川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が、大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元し、貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示を行っています。
 

 
 

 
 
日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。
1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆院選挙落選により資金難に陥る。1898年に2人は築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図るという挙に出たこともある。この試みは失敗し、淡路島に漂着して一命を取り留めた。

舞台衣装を身にまとった貞奴
1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため(興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたためとも)急遽代役を務め、日本初の女優となった。ところが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着し、極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が(空腹で倒れたのを、何も知らない観客が演技だと勘違いしたのもあって)観客に大受けした。エキゾチックな日本舞踊貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。
1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った(日本の事務局には許可願いを出していなかったという)。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダン貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。
 

 
先日見かけた金閣寺の北山文庫の洋館とこの二葉館が同じアメリカ屋の作品だったのです。
 

 
 

 
 

 
 
貞さんの文机
 
 

 
 

 
名古屋の城山神社の近くに住んでいたからペンネームが城山三郎、書斎の再現。
 
田中正造を描いた「辛酸」は大好きな本です。
 
城山さんが奥様と出会った名古屋の図書館もレトロな建物でしたが今はありません、先日新聞に載っていました。福沢諭吉の弟子の銀行家が寄贈した そうですが空襲で焼かれてしまったのか。
 

 
貞の三味線
 

 
 
 
先日、新聞に載った城山三郎が妻と運命的な出会いをした図書館の記事です。
休館日だったのに。
「そうか、君はもういないのか」はもう題名思い出すだけで泣けてきます。
田村正和主演ドラマも出来ました。
この図書館は空襲でやられたのか今はありません。企業家が寄贈したとか。