riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">「半身の馬」大地の画家  神田日勝</span>

録画していた「半身の馬」大地の画家  神田日勝をやっと観ました。
素晴らしく力強い絵です。
中学を卒業して農家を継ぎながら好きな絵を描いていた人、テレビでは全然出てこないのですが検索すると芸大に進学し、のちに北海道大学の名誉教授になられた兄がいると知りました。わけありなのでしょうか。
32歳で敗血症で亡くなったとは、痛ましいです。
 
奥さまは若くお元気そうです。
 
東京生まれ、北海道鹿追村で育ちました。
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北の大地に生き、32歳の若さでよう逝した画家、神田日勝(かんだ・にっしょう1937~1970)。その作品の多くが馬。それも、躍動感のある雄姿ではなく、痩せ馬、老馬、死馬の姿-。日勝にとって、馬なくして生活は成り立たず、一心同体の存在であった。
日勝は、昭和12年、東京に生まれ、日中戦争の日本勝利を願い、日勝と名付けられた。東京をたびたび襲う空襲から逃れるため、8歳で両親とともに開拓民として、帯広近郊の鹿追村に入植した。慣れない農作業で厳しい季節を過ごしながら、日勝は絵を描き続けた。わずか12年の画業の中で、作風は、劇的な変化を遂げていく。
絶筆となった一頭の黒い馬。頭と二本の前足が克明に描かれながら、なぜか胴体の途中でばっさりと途切れている。しかしその絵は、多くの事を語りかけ、見る者の胸を打つ。未完というには、余りにも衝撃的なこの絶筆は、皮肉にも日勝の代表作となった。完成したいと願ったのか、意図的に筆を置いたのか、謎に満ちた一枚である。
初夏の北海道、帯広郊外の鹿追町にある神田日勝記念美術館を訪ね、傑作の数々を堪能。鹿追に今も暮らす日勝の妻をはじめ、創作の過程を見つめた関係者の貴重な証言から、鮮烈な作品を残した画家の生涯をたどっていく
『牛』(1964年)
  • 腹を割かれた牛(牛は死ぬとガスが溜まるので腹を割く。)がモチーフの作品。その後の色彩豊かな作品に通ずる赤々とした腹の内壁が印象的。
『画室A』(1966年)
  • 『画室E』まで続く一連の『画室』シリーズの最初の作品。この当時流行していたアンフォルメル運動の気配を感じ取りながらも、独自の具象表現を維持しようとした日勝の意欲が表れている作品。
『室内風景』(1970年)北海道立近代美術館
  • 日勝最後の完成作。新聞が壁と床一面に張られた部屋で、男が一人うずくまっている印象的な絵。日勝の絵としては珍しく、奥行きのある絵となっている。因みに1968年にも同名の作品を発表しているが、うずくまる男性は共通しているものの、背景がまったく異なり全然違う印象を受ける。
『馬(絶筆)』(1970年)
  • 日勝の絶筆。製作中に病に倒れたため、後ろ足が全く描かれていない不思議な作品。しかし、ベニヤ板にペインティングナイフで描かれた黒く重厚な馬には、未完ながらも完成作の様な雰囲気が漂う。また、神田日勝記念美術館のシンボルマークにもなっている。
 
釧路湿原開拓された方の御苦労がわかる番組観ましたが日勝もそうですね。
 
移民は棄民だった時代。
 
満州開拓団も政府による宣伝で与えられたと思った土地は中国人のものでそれを取り上げてしまった。
 
ひとたび敗戦となると、軍隊からは見放され中国残留孤児や女性、日本にたどり着く前にソ連兵に暴行受けたり、餓死したり、散々な目に遭いました。
 
政府は騙します!
 
 
ふくろうの舞台は東北地方の山奥にある希望ヵ丘開拓村。ここは役所からタダで提供された開拓地。ここには、すべての財産を売り払って満州へ出かけていったため、やっと日本に戻ってきても帰る場所のない、満州からの引揚者たちが、最後の希望をもって入植してきた。しかしそこは名前とは裏腹に、「不毛の地」だった。いくら努力しても作物は育たず、そこで食っていくことは不可能だったのだ。そのため20軒の入植者は次々と・・・。