riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">揚輝荘インド壁画やトンネル見学</span>

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前にも何回か見学した元松坂屋の別荘揚輝荘ですが、やっと一番観たかったインド壁画が見学できるようになりました。な~がさんがUPされて、気がついて早速見学してきました。
 
 
揚輝荘は、松坂屋の初代伊藤次郎左衛門祐民氏(お若い時の写真観ると凄くハンサム、本も出ているので読んでみます~)によって覚王山日泰寺の東南に隣接する1万坪の森を切り拓いて築かれた別荘です。
揚輝荘の構築は大正7年(1918)、茶屋町本家から、三賞亭を移築したときから始まり20年間で完成しております。
最盛期には、移築・新築された建物30数棟が威容を誇っていました。
 
 

 
 

 
 

アジャンタ壁画が観たい!
 
揚輝荘HP 揚輝荘はタイから仏舎利を頂いた名古屋日泰寺の隣にあります。
 
大正7年(1918)に最初の建物が造られてからの数年間が、「揚輝荘」の創生期と言えます。建物の中心は、矢場町五ノ切(現・松坂屋本店の地)にあった「揚輝荘座敷」と徳川邸から移築された「有芳軒」です。祐民氏は、大正11年(1922)ごろから「座敷」で起居するようになりますが、「揚輝荘」は、まだ身内や内輪の催し物に使われていたと思われます。
 経営者としての祐民氏は、すでに明治43年(1910)、栄町角に近代デパート㈱いとう呉服店を創立していますが、関東大震災(1923)の際には、駆逐艦に乗って生活必需物資を被災地に供給してその声価を高めました。
 
 
 
 
 

 

 
聴松閣
2009年11月は壁がこのようでした!上高地の帝国ホテルのようです。
 


 
「揚輝荘」は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長である15代伊藤次郎左衛門祐民の別荘として、覚王山の丘陵地に建設された、 名古屋の近代における郊外別荘の代表作です。起伏に富んだ、約1万坪に及ぶ広大な敷地に、池泉をめぐらすなど地形や周囲の自然を活かして造られ、最盛期には、建築的・歴史的価値の高い30数棟に及ぶ建物がありました。祐民が経営者・財界人として活躍し、また国際交流等の社会活動に取組んでいたため、揚輝荘は単に個人の別荘にとどまらず、皇族、政治家、実業家、文化人など各界の名士が来荘し、園遊会、観月会、茶会などが数多く 開かれる豪華な迎賓館、社交場として、また、アジアの留学生の寄宿舎として、国内外の広範な交流の場となっていました。

戦時の空襲による被害や風雨による老朽化のほか、開発等の影響から敷地・建物の大半が失われたものの、現在も主要な部分が残されており、平成19年に本市に寄附されました。 これらは概ね建設当時の姿を今に伝えており、平成20年には5棟の建造物(聴松閣、揚輝荘座敷、伴華楼、三賞亭、白雲橋)が市指定有形文化財に指定され、地域の歴史的・文化的資源として市民共有の貴重な財産となっています。
 

 
「揚輝荘」の名前は、この地が月見の名所であったところから、祐民が漢詩の一部「春水満四澤、夏雲多奇峰、秋月、冬嶺秀孤松」からとったものといわれています。 
 
幼い頃から狂言、漢学、茶道、絵画、弓道など多方面の学芸・趣味を学び、嗜んでおり、各界の名士との幅広い交際にその才能を発揮しました。社交の場として構築された揚輝荘でも園遊会、観月会、 茶会などが催されましたが、造営にあたっては近代数寄者であった祐民の趣味が反映されています。また、仏教に信仰が篤く、昭和9(1934)年には4ヶ月のインド等へ仏跡巡拝旅行をしており、そのときに受けた 感銘を聴松閣で再現したと言われています。続きはこちら
 
玄関外の虎

喫茶室べんがら、おせんべいゲット、レトルトカレーも売っています。
ここでは買いませんでしたがドラマ夫婦善哉で出てきた自由軒の混ぜカレーや資生堂パーラーなどのカレー買ってみました。資生堂のはさすが袋まで可愛い、撮影忘れました。資生堂パーラー、高そうで混雑しているのではいったことがありません。カレーは美味でした。
 
混ぜカレーは、玉ねぎと牛肉を炒めてからという手間をかけます。これも一度は食べてみたかったの
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

 
 

 
階段が立派です。
 

 
二階の寝室は中国風
 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
壁画やトンネル(汪 兆銘(おう ちょうめい之ために作った?)は地下にあります。
左トンネルの入り口、この先にドームの広場が在り、トンネルは地上に露出しているのが見えた時代もあったとか。右、地下室に降りる階段。
 
地下には小さい舞台や舞踏場、エッチングで描かれたヒマラヤのガラス戸、ヴォーリズの作ったような作りつけのソファなど在ります。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 
 

 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日泰字の五重塔伴華楼

昭和4年尾張徳川家から移築された茶室(4畳半)付きの座敷(明治33年建築)に、鈴木禎次設計の洋間(東洋風)を新築してドッキングし、「Bungalow」をもじってバンガロウと呼ばせている。鈴木禎次は、名古屋の近代建築の巨匠、夏目漱石の義弟であり、名工大(名工専)教授。鶴舞公園の噴水塔・奏楽堂を手掛けた方だと言えば判りやすいかも知れない。傾斜地のため、南面する玄関は一階、和室は二階のレベルになっております。二階洋間外壁面、サワラのうろこ壁は和室部分にもつながり、ドッキングの違和感がなく、手作りの銅釘が浮いている。和室には千年杉の張り合わせ欄間があり、ここでは伊藤家の伝統行事が行われている。二階洋間の暖炉には、飛鳥時代のものなど、古代瓦が埋め込まれている。一階応接間の壁には餅つき兎のレリーフが付いていますがこの地が月見の名所であることの遊びこころでしょうか。 玄関テラス前の階段には聴泉窟や橋と同じく五色石の意匠がここにも繰り返して使われている