<span itemprop="headline">タケシと揚輝荘と祐民―よみがえる松坂屋創業者の理想郷 (東海 風の道文庫)</span>
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揚輝荘と祐民―よみがえる松坂屋創業者の理想郷 (東海 風の道文庫)
とても詳しい本です。
今、BSNHKでコンクール最高賞のドキュメンタリ―番組放送中!
見逃してる番組も多いので有難いです。特に冤罪と闘う弁護士の番組は必見。
だれでも冤罪に陥れられる危険性はあります。
あのカレー事件の林被告も、彼女はお金にならないことはしない、
確たる証拠もない、証拠とされたヒ素もねつ造…それなのに死刑判決とは。
死刑制度は国際的にも非難されています。
昨日、タケシのあいちトリエンナーレの番組を観ました。画像右をご覧ください。
タケシの作品をステンドグラスにして真っ白い結婚式場を美術館内に作ったのですが、そのステンドの作者も出演されました。
それで久留米の駅で観たステンドが臼井定一作とわかりました。
久留米の駅のステンドグラス
新千歳空港では全然覚えていないのですがそこを通らなかったのでしょうか。
何回か見学した揚輝荘ですが先日一番観たかったインド壁画を観ることが出来たのですが、この本が出ていることを知り読んでいます。
松坂屋創業者の祐民のお若い時のハンサムな事。教養ある方です。
四か月もインドに旅、地下の壁画のある舞舞踏場の南面には、ヒマラヤの風景が描かれたエッチングガラスがはめ込まれています。夜のためには照明が仕込まれています。
松坂屋の歴史 1611年(慶長16年)- 織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」創業。
中略
1875年(明治8年)- 大阪の「ゑびす屋呉服店」を買収。「ゑびす屋いとう呉服店」として大阪進出。 1881年(明治14年)- 名古屋茶屋町角に伊藤銀行(現.三菱東京UFJ銀行)を開業。- 1907年(明治40年)- 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。
- 1910年(明治43年)-「株式会社いとう呉服店」を設立(資本金50万円)。
名古屋・栄町に百貨店を開業。 - 1911年(明治44年)- いとう 少年音楽隊結成。後に東京フィルハーモニー交響楽団へと発展。
- 1924年(大正13年) - 銀座店開店。全館土足入場可能な百貨店となった。
蘭丸!
祐民は4男でしたが兄たちが早くなくなり後継ぎに。
1893年(明治26年)明倫小学校高等部卒業の後は当時の商家の倣いで進学せず、自宅で個人教授を受けた。教授となったのは雅楽の恒川重光、龍笛の吉田種彦・山井基万、謡曲の尾崎浪音、茶道の松尾宗幽(松尾流八代)、水彩画の野崎華年、狂言の五代目河村武七、漢文の増田白水、漢学の井上雅川、弓道の星野勘左衛門などで、父や祖父からも茶道、和歌、国文学、雅楽、書道などの手解きを受けている。17歳の時に兄・宮松が脚気衝心で急逝したため伊藤家の跡継ぎとなった。
大学などは進学していないけれど一流の家元たちから教授されている。だから「生活の文化の松坂屋」なのかな。
祐民の晩年は戦時体制なのにアジアの留学生を住まわせたりの国際交流や社会事業に専念し、自由な雰囲気に満ちていたそうです。
お子様ランチを提供したのも上野松坂屋が初めて!
名古屋城外堀は空掘でしたので瀬戸電を走らせていましたがそこに娯楽園という子供向けの動物園を開いたとか。
その他劇場、映画館も。
明倫尋常小学校も伊藤家から金銭的教育的に援助を受けていた。