riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">久しぶりの桂離宮その2</span>

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書院全景。

天の橋立?
 

 
 

 
 中島のひとつの登りきった所に峠の茶屋風の賞花亭があります。
竹の連子窓を通して見る景色は深山幽邃(ゆうすい)の趣
 

 

 
 

 
園林堂おんりんどう
賞花亭の山裾にある持仏堂。今は建物だけが残っている。
篇額は後水尾上皇の宸筆
離宮全体と異質名の葉この屋根の形? 
本瓦葺宝形造り屋根ほんかわらぶきほうぎょくづくり
 

 

 

 
田舎風の茶室 篇額は曼殊院良恕法親王
 

 

 
 

 

 
月波楼「中の間」から松琴亭を望む

 

 

 
 
 

 
御輿寄おこしよせ
書院の玄関、苔で覆われた前庭。
いままでにない切り石の硬さのある構成。
更に石段上がると一枚石の大きな沓脱がある。
六人の沓を並べられることから「六の沓脱」という。
説明はパンフより
 
以下はWIK
 
 
桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。ブルーノ・タウトヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている[9][10]。昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウト桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した[11][12]
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。
桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。
桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである[13]。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものである。古書院の西には「御末所」と「臣下控所」、中書院の西には「旧役所」があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである[14]。他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない
 
続きます。