riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">【ノーベル平和賞の歪み】ノルウェー政府の国家事業+ヨーロッパの金持の趣味?</span>

昨夜(10日)、『憲法第9条を持つ日本国民』ではなく、マララ・ユスフザイさんとカイラシュ・サティヤルティの2名が、ノーベル平和賞を受賞した。
 
その後の報道ぶり(特に今朝の『朝日新聞』の久方ぶりのはしゃいだような報道の仕方)を見ていて、ますます、ノーベル平和賞に対する疑問が深まった。
 
このことについて書く前に、安倍首相がしているコメントについても、触れておこう。
 


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安倍晋三首相は10日午前の閣議前の写真撮影の際、今年のノーベル平和賞の受賞予測に「憲法9条を保持する日本国民」が挙がったことについて「結構、政治的ですよね」との感想を漏らした。

 
隣に座った石破茂地方創生相が、オバマ米大統領が2009年に受賞したことを挙げ、「『日本国民』が受賞した場合に誰がもらうのか。政治的ですね」という趣旨の発言をしたことを受けて語った。
 
石破氏は閣議後の記者会見で「平和賞の主体が人の行為であるということ。客観的な新しい発見、新しい技術の実用化とは異なるという、単に事実を話した」と語った。>
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これだけの長さの記事で、4面の少し下のほうに掲載されていた。
石破氏が言う『単に事実を話した』だけの中身について言うならば、私はノーベル賞は、経済学賞、文学賞、平和賞は、かなり主観的なものだと思っている。
 
ただし、その他の物理学賞その他については、私が全く知識がないから、『主観的でないだろう』と思っているだけなのかもしれない。
ともかく、多少なりとも知識がある(経済学賞はほとんどないと言っても良いが、しかし多少なりとも『土地勘』みたいなのはある)賞について、どうしてもそのように感じてしまう。

特にその『主観的』な度合が激しいのが、ノーベル平和賞である。
仮に、安倍首相がこれまで、そのことに気が付いていないとしたら、随分、(総理大臣としては)『うかつな話』だと思う(実際には、そのことは『百も承知』のはずだ。朝日新聞やNHKにあれだけの、攻撃を仕掛けさせる『指揮者』がそれほど、うかつなはずはない)。
 
ノーベル平和賞は、ノルウェー国会が任命する5人の選考委員によって決定されるという。これは、いわばノルウェーの国家的な事業なのである(他のノーベル賞スウェーデンが行っているが、そのうち、経済学賞は正式名称を、『アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞』といい、ちょっと異なる位置づけのようだ)。
 
だから、例えば、村上春樹氏が文学賞でなく、平和賞の候補であれば、とっくに受賞していたであろう、と思う。なぜなら、彼には『ノルウェーの森』という作品があるから(これは冗談だ)。

ノーベル平和賞が、極めてユニーク?な賞であることは、2009年にオバマ大統領、2010年には、中国の劉暁波氏に送られていることなどを見てもわかる。
日本との関連でいえば、1974年に佐藤栄作氏(安倍首相の大叔父にあたる)に送られている。
 
 
佐藤首相は、非核三原則やアジアの平和に貢献したということで送られたらしいのだが、このころ、彼が『核付き』あるいは『核隠し』の沖縄返還をアメリカとの『密約』を交わしながら行ったことは、既に、日本国内では知られていた。
 
だから、このころ、私は大学を卒業して社会人になってから、それほど年数がたっていなかったが、この時点で『ノーベル平和賞』というものは、信用できないものだと感じた。
 
今年の受賞者についても例外ではない。
受賞者の一人、マララ・ユスフザイさんは、まだ17歳の学生である。
パキスタンの国籍であるが、イギリスで生活している。『女子教育の権利を唱えてイスラム過激派に頭を撃たれ一命を取り留めた』(『朝日新聞』の記述より)、いわば、こうした問題についての『シンボル』のような存在である。
 
彼女がいくら勇気があるといっても、まだ17歳に過ぎない。頭を銃撃されたのは15歳のときである。
そのような、若い女性をいわば『シンボル』『アイドル(偶像)』として、このような賞を与えることは、彼女の本当の人生の可能性という意味でも『重荷』になりかねない。
 
また、こうした授賞は、パキスタン国内等々で、『欧米の外部勢力による干渉』として激しい反発を生み出しかねないことは、容易に想像できることである。
 
現に、平和賞発表の際の記者会見において、『彼女は若すぎるのではないか?』と質問した記者(日本人記者ではないようだ)もいたらしい。
それに対して、ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長は、「世界中の若者に希望を与えることに、焦点を当てたかった」と発言したと、『朝日新聞』の記事は伝えている。
 
極めて、『政治的』であり、あえて言うなら、『投機的』でもある。
まるで、ゲームをするような感覚、あるいは(表現は悪いが)馬券に投資をするような感覚で賞を選考しているように思えてならない。
 
 
もちろん、何事であっても、良い結果もありうるであろう。だが、その悪い結果、マイナスの影響に対しては、誰が責任をとるのか?
ノーベル賞委員会の5人の人たちにそのような責任をとることは、できないだろう。

だから、このような『賞』が世の中にあってはいけないと、まで言うつもりはないが、この程度の『賞』に対して、世界はあまりにも大きな権威と名誉を与えてしまっているように見える。
(もっとも、日本のメディアは特にノーベル賞が好きという印象を受けるので、世界のどこでも、ノーベル平和賞がこれほど話題になるかどうかは、知らない。)
 
今回の平和賞がいかに『政治的』であるかは、パキスタン人のマララさんと抱き合わせ?で(パキスタンとは、一種の宿敵状態にある)インド人のサティヤル氏に授賞していることでもわかる。
 

私は、今回、『憲法9条を保持している日本国民』がこのような『ノーベル平和賞』を受賞しなくて、むしろ良かったと、改めて感じている。
 
憲法9条』の理念(と現実的重み)は、安倍首相が推進する、『戦後レジーム打破』の攻勢に対して、積極的に防衛されるべきであると、私は考えている。
 
しかし、それは『ノーベル平和賞』などの権威に依拠するのではなく、日本国民自身の自覚と運動、そして、それに共鳴する外国の友人たちとの連帯の活動の中で、勝ち取らるべきものである。
 
 
 

 
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転載元: 北京老学生・日本に帰国