riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">再掲載、それほどに、戦がしたい、男らよ。子を産んでみよ。死ねと言えるか</span>

 
語り継ぎ語り継ぐべしあの悲惨 知らざる子らにまたその子らに
 
1フィート運動支え続けた市民運動家 沖縄の平和運動の“母”
 

 
 
 沖縄戦の記録フィルムを収集、上映活動や平和学習会を行う市民団体「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」の元事務局長。
 
 本部村(現・国頭〈くにがみ〉郡本部〈もとぶ〉町)具志堅出身。
 
ひめゆり学徒隊」で知られる沖縄県女子師範学校を 1933(昭和8)年に卒業、国頭郡本部町の謝花(じゃはな)尋常小学校教師になる。その後、川崎市に出向、自身は沖縄戦に巻き込まれなかったが、従軍看護師として学徒動員された教え子を亡くした。
 
「立派な軍国教師だった」という痛恨の思いと、「軍国教師として戦場に教え子を送った」との反省から、46年に沖縄に戻り、74年まで小学校教師を務め、退職後は、沖縄県婦人連合会で「母たちの戦争体験」出版を主導したほか、女性のトートーメー(位牌〈いはい〉)継承、「無国籍児」問題などに取り組んだ。
 
86年、米国立公文書館に保管される記録フィルムを買い取って上映する1フィート運動の会事務局長に就任した。その後、事務局長を20年にわたり務め、沖縄の反戦平和運動の「顔」となった。
 
そのフィルムを基に製作した記録映画「沖縄戦・未来への証言」を携えて国連軍縮特別総会への参加、米・ニューヨークなど各地での上映会開催などの活動を続けるとなどの平和運動に取り組んだ。
 
92年・沖縄県功労者、96年・那覇市政功労者、2000年・沖縄タイムス(文化賞)、2001年・地道な活動に取り組んできた女性に贈られる「白井博子・地の塩賞」などを受賞。
 
 細い体で静かな語り口の中にも、情熱と信念の強く持った、笑顔が最高に素敵な女性(ヒト)で、「基地のない平和な沖縄をつくるまで、死んでも死に切れない」が口ぐせであったという。 
 
2013年6月27日午後0時7分、呼吸不全のため沖縄県八重瀬(やえせ)町の病院で死去した。99歳。
 
葬儀・告別式は29日午後4時から沖縄県浦添市の「いなんせ会館」で行われ、中村さんとゆかりの深い同会関係者をはじめ平和団体や女性団体、政界など各界から大勢の人が駆けつけ、別れを惜しんだ。
 
喪主の3男の中村彰さんが「母は、皆さんに愛されて本当に幸せだったと思います」と弔辞を述べたあと、参列者が1人1人祭壇に向かい、遺影に静かに手を合わせて別れを惜しんだ。
 
会場には、1988年に米ニューヨークであった国連軍縮会議に参加した時の写真や、中村さんの著書、県や那覇市からの表彰状が飾られた。「月桃」など中村さんが好きだった曲が流れる中、約500人の参列者が焼香、冥福を祈った。遺影の前で時間を掛けて手を合わせたり、「先生ありがとう」と呼び掛ける人も。故人が深く慕われていたことをうかがわせた。
 
告別式のあと、1フィート運動の会の元副代表、石川元平さん(75)は、「中村さんの平和運動の原点には、戦前、教師として子どもたちを戦場に送ってしまったことへの罪滅ぼしの気持ちがあったのだと思います。残された私たちが遺志を受け止め、中村さんの平和への理念を引き継ぎたい」と話した。
 
しのぶ集いが12月8日、那覇市おもろまちの市職員厚生会館で関係者ら約60人が参加して開かれ、「平和運動の母」と呼ばれた中村さんの人生を振り返るとともに、特定秘密保護法案の強行可決や改憲をめぐる動きに危機感を示し、「反戦の遺志を後世に引き継ごう」と誓い合った。
 
中村さんと同じ本部町出身で、教え子2人の写真をなでながら「ごめんね」と語りかける姿を忘れられない、ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長は、中村さんが同館の第4展示室へ直行、中村さんの遺影に向かい「悪いのは戦争を起こした人たち。戦争は人災であることを若い人たちに伝えていきたい」と力を込めた。
 
1フィートの会元顧問の福地曠昭さんは、米国に散在する沖縄戦関連の記録フィルムを収集、公開する活動の意義を中村さんが県内外からの来訪者に対し、熱心に説明していたことを紹介。「教え子を再び戦場に送ってはいけない、青年よ再び銃を取るな-という、強い使命に燃えていた」と話し、草の根平和運動を続ける決意を示した。
 
事務局で一緒に働いた中村節子さんは「厳しい状況でも決して諦めない人」、長男の妻のひで子さんは「理不尽な権力と断固闘いながら、家庭では温かい母だった」とたたえた。
 

 
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☆ 〈それほどに戦(いく)さがしたい男らよ 子を生んでみよ 死ねと言えるか〉(13年8月5日配信『朝日新聞』-「天声人語」)
 
〈それほどに戦(いく)さがしたい男らよ 子を生んでみよ 死ねと言えるか〉。そんな歌と反戦平和運動への献身を残して、沖縄の中村文子さんが亡くなったのは6月末のことだ。存命なら来月に100歳を迎えるはずだった。追想の夏、お聞きした話の数々が胸をよぎっていく
▼教師だった文子さんは、「ひめゆり学徒隊」と同じ世代を小学校で教えた。沖縄戦のときは出向して川崎市にいた。敗戦翌年に戻り、母や多くの教え子が戦火に消えたのを知る
▼軍国教育を担ったことを、生涯をかけて悔やんだ。米国の沖縄戦フィルムを買い取って上映する「1フィート運動」を切り回し、平和を語るどんな小さな集まりにも顔を出した。「口が動く限りは」と基地への異議を訴え続けてきた
▼国会の調査団が来たときは、〈痛かろう薬やろうかと調査団痛みを知らぬことばしらじらし〉と詠んだこともある。繰り返されてきた痛みの押しつけ。再びのオスプレイ配備に、泉下(せんか)で何を思うだろう
▼こんな話もうかがった。川崎に住んだ戦争中、沖縄からの移住が多かったサイパン島が陥落したとき、彼女の出身を知らずに言う人がいたそうだ。「玉砕したのはほとんど沖縄の人ですって。内地人の犠牲が少なかったのが救いだったんですって」
▼敗戦から68年、ヤマト(本土)の意識は根っこのところでどれほど変わっただろう。99%が1%に忍苦を強いる民主主義は正しいといえるのだろうか。追加配備によって、沖縄の怪鳥は24羽に倍増する。
 
☆ 自宅の布団で安らかに眠るご遺体は(13年7月2日配信『沖縄タイムス』-「大弦小弦」)
                                               
 自宅の布団で安らかに眠るご遺体は、トレードマークの帽子姿だったという。「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」の中村文子さんが先月、逝かれた
▼お元気なころ取材で数回、話をうかがった。戦争や1フィート関連だけでなく、企画として「長寿の秘訣(ひけつ)」を聞いたことがある。「1日の食事の内容を教えてください」。中村さんにそんな質問をした記者もそういないのではないか
▼「自然の恵みが、本当の豊かさ」。まるでお手本のような、控えめで規則正しい生活。だが、穏やかな外見からは想像できないほどの熱い思いで、平和を願い続けた。優しく強い沖縄の女性。その姿は本当に圧巻だった
▼訃報の翌日、米軍普天間飛行場名護市辺野古移設に向けて、国が県に提出した公有水面埋立申請書の告示・縦覧が始まった。黒表紙の分厚い資料は全部で6冊
▼巨大な軍事施設を造る費用は2300億円以上となった。全国15カ所から岩や土砂をかき集めて運び、多くの生き物が棲(す)む海を埋める。戦後68年が過ぎてなお、新たな基地を造ろうとする動きを、中村さんは心から悲しんでいるに違いない
▼なぜ辺野古か。他の選択肢は本当にゼロか。疑問は置き去りのまま、手続きは進んでいる。縦覧期間は3週間。小さな関心が、何かを動かす一歩になる。
 
☆ 中村文子さんの足跡(13年6月29日配信『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 県内で平和集会があれば、最前列にいる姿をお見掛けした。帽子をかぶった小さな体、柔和な笑み。平和への思いを語る言葉には、いささかの迷いもなかった
▼3月に解散した「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」で長年事務局長を務めた中村文子さんが27日、亡くなった。99歳だった。数年前、取材で自宅に伺った。憲法9条の掛け軸が飾られ、本棚には何十冊ものノートが整然と並べられていた
▼きれいな包装紙のカバーが付いたノートには日々のことや自作の川柳を記し、新聞記事がスクラップされていた。90歳を過ぎてもニュースに関心を寄せ、生活者としての視点を忘れなかった
平和運動に関わるようになった理由は戦前、教育者として皇民化教育を進めたことへの贖罪(しょくざい)意識。有事法制成立が迫った時には憤った。「声の束が戦争の火種を打ち壊すハンマーになる」。話を伺う度、背筋が伸びた
▼集会などで中村さんの姿を見掛けなくなってからというわけではないが、今、この国の雲行きは怪しい。「愛国心を刷り込むとほかの国を見下すことにつながる」。中村さんは今のアジア各国との緊張状態を心配し、後ろ髪を引かれる思いで逝ったのではないか
▼一貫して戦につながるものに異を唱えた。遺志を受け継ぎ、新たな戦前を阻止できるか。後に続く世代の責任を肝に銘じたい。
 
☆ [中村文子さん死去]沖縄戦継承に力尽くす(13年6月28日配信『沖縄タイムス』-「社説」)
                                                                              
 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長を長く務めた中村文子さんが亡くなった。99歳だった。自らを「軍国教師」と呼び、その贖罪(しょくざい)から戦場へ送った教え子を思い続け、平和運動に身をささげた半生だった。
 晩年は会の顧問として運動の一線から退いていた。しかし、運動を共にしたメンバーには、二度と沖縄を戦場にしないよう戦争の悲惨さを語り継ぐ活動を続けるよう伝えていたという。
 〈語り継ぎ語り継ぐべしあの悲惨 知らざる子らにまたその子らに〉
 中村さんが自著に残した短歌に、あらためて沖縄戦を語り継ぐ強い意志を感じる。心からご冥福をお祈りし、先達の平和への思いを引き継ぐ決意を新たにしたい。
 中村さんの思いは、1フィートの会を立ち上げた初代代表でひめゆり学徒引率教師の仲宗根政善さん、2代目代表でジャーナリストの牧港篤三さんら平和運動をリードした故人と共通する。
 戦争に加担し、その結果、多くの教え子や県民を巻き込んだという責任と贖罪だ。中村さんは生前、沖縄戦で多くの人が亡くなった4~6月を「戦争の季節」と呼び、学徒隊に送った教え子が夢の中に出てくると回想している。
 「あの子たちはいつもおかっぱの髪のまま。卒業、就職、結婚の喜びも知らない」
 ただ、中村さんは夫の仕事の都合で神奈川県で終戦沖縄戦を直接体験せず、戦後、教え子の戦場の様子を尋ね歩いたのも、戦の悲惨さを追体験する狙いだった。
    ■    ■
 教職を退き、県婦人連合会では「母たちの戦争体験」出版を主導、その後、1フィートの会に身を置いたのも必然だったのだろう。
 1984年の初回フィルム上映会で中村さんは「伝え聞いていた事実を確かなこととして、しっかりと胸に刻みつけることができた」と語っている。
 言葉や文字だけでは伝えられない映像が、戦争を知らない人や若い世代へ沖縄戦を継承する力になると確信したのではないだろうか。
 中村さんの事務局長時代、記録フィルムを集成した記録映画「沖縄戦・未来への証言」の製作・上映、英語版の完成、米国ニューヨークなどでの上映など活動を活発に広げた。
 1フィートの会の活動は評価され、中村さんも92年に県功労者、96年に那覇市政功労者、2000年沖縄タイムス賞、01年白井博子・地の塩賞などを受賞している。
    ■    ■
 中村さんは20年ほど前の県功労者表彰祝賀会で「私はどうあっても100歳まで生きて核もない、基地もない、環境破壊もない沖縄を見たい」と語っていた。中村さんの望んだ沖縄は今も実現していない。
 今年3月に1フィートの会が幕を下ろし、軍国主義の実相を知る平和運動家がまた一人去った。学徒の高齢化でひめゆり平和祈念資料館の館外講話も9月で終了する。
 残された時間は少ない。沖縄戦の実相をどう次代に継承するのか、中村さんの訃報が強く問い掛けている。
 
☆ 平和希求の生涯 中村文子さん死去(13年6月28日配信『琉球新報』)
 
 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長を長年務めた中村文子さんの訃報を受け、自宅で27日夜に営まれた仮通夜には、同会関係者らが弔問に訪れた。沖縄の平和運動の“母”として戦争のない社会を渇望し、平等を求めて女性の権利向上にも努めた生涯。関係者は中村さんの死を悼み、築いた成果と教えを次代に継承することを誓った。
 1フィート運動の提唱者でもある沖縄国際平和研究所理事長の大田昌秀さん(元県知事)は「教え子を戦場に送ったという後悔の念を絶えず持っていて、戦時中の責任を取るという思いで1フィート運動に全力を傾けてくれた。沖縄の平和運動にとって欠かすことのできない大切な人物だった」と振り返った。「中村さんがともした火を受け継いでいくことが、長い間運動を守り育ててくれたことに感謝を示すことだ。願わくば若い人たちが後に続いてほしい」と語った。
 1フィート運動の会の事務局長に中村さんを推すなど親交のあった沖国大名誉教授の石原昌家さんは「長年、1フィート運動と共に歩まれていた先生の訃報は、まるで3月に解散した会を追うかのように旅立たれたように聞こえた。90歳を過ぎても平和活動の最前線に立たれていた姿は、将来の世代を鼓舞し続けていた」としのんだ。
 元副代表で1フィートの会30周年記念誌「未来への道標」の編集委員長を務めた石川元平さん(元沖教組委員長)は、沖縄の日本復帰で、自治法の一部改正に伴って慰霊の日が廃止されようとした事態を振り返りながら、「中村事務局長が先頭となり平和・市民団体を動かし、市民、県民の支持を得て慰霊の日の存続を勝ち取ることができた。私たちは遺志を継ぎ、『平和を希求する心と、戦争に反対する行動力』を沖縄の未来を担う子どもたちに伝えていきたい」と語った。
 自身の戦争体験を30年以上語り続ける安里要江さんは、中村さんが副会長を務めた当時に県婦人連合会で共に活動した思い出に触れ「社会にどのような貢献ができるか語り合った。中村先生の導きがあって、語り部を続けられている」と、感謝の気持ちを語った。
 県婦人連合会の平良菊会長は「細い体で柔らかな物腰にもかかわらず、強い意志を持って平和運動に取り組んでいた人だった」と語る。「平和運動だけでなく、タクシー料金値上げなど生活に直結する問題にも、(当時の)宮里悦会長と共に精力的に取り組んだ。その姿勢を今も引き継いでいる」と、同連合会副会長時に残した功績をたたえた。
「優しさと強さの人」 涙ぐむ弔問客ら
 27日に死去した中村文子さんの自宅には同日夜、弔問客が相次いだ。中村さんが眠る部屋の床の間には、長年掛けられているという、戦争放棄をうたった憲法9条の掛け軸がそのまま飾られ、平和を強く願い続けた故人の生きざまを印象付けた。


転載元: 情報収集中&充電中