<span itemprop="headline">再転載、反骨の報道写真家・福島菊次郎さん(90歳)のことby山本宗補氏</span>
私が祝島の原発反対運動や上関原発の建設問題を知るようになったのも、今日紹介する報道写真家・福島菊次郎さん(90歳と6ヶ月)とのご縁からだ。現在は山口県柳井市のアパートで、愛犬ロクとの独居生活の菊次郎さんは心から畏敬する報道写真家だ。菊次郎さんの生き様と原発反対運動は直結し、菊次郎さんが取材し報道してきたものから学ぶことばかりだからだ。
その前に、菊次郎さんのことを簡単に知ってもらおう。亡くなった作家の井上ひさしさんが、東京時代の福島さんの人物ルポを雑誌に書いている。
「福島氏が豪(えら)いのは、外出すると尾行がつくことである。つまり家庭では優しい父親である氏が、いったん玄関の戸をあけて足を一歩外に踏み出すと、体制側の要注意人物になってしまうわけだ」
菊次郎さんは広島の被爆者を撮り続けた写真集『ピカドン ある原爆被災者の記録』によって、「原爆写真家」として知られるようになり、国の権力と一貫して対峙してきたことから「反骨」の報道写真家として知られる。菊次郎さんは1921年、山口県下松市生まれ。60年代初頭から20年間、フォトジャーナリズムの第一線で活躍し、「文芸春秋」などの月刊誌や週刊誌などを中心に、一時は年間150ページ以上発表した。刊行した写真集は12冊、2003年 からは写真に『写らなかった戦後』シリーズの活字だけの著書を執筆。いまはシリーズ4冊目に取りかかっている。原発事故関連の取材はその冒頭にくる予定だという。
ベトナム反戦運動、三里塚闘争、学生運動が高揚した戦後日本の激動期。機動隊に立ち向かう若者たちに、福島さんは共感以上のあこがれを感じ、夢中でカメラを向けるようになる。「若い頃、国のいうことを鵜呑みにしていた自分がどれだけ阿呆だったかを思い知らされた」「学生運動は国家権力に対する反乱であり、市民運動は海をこえた反戦運動」だと。もっと詳しく菊次郎さんの生き様を知りたい方は、私が信濃毎日新聞に書いた連載記事がホームページにあるので読んでください。
(ちなみに、私が菊次郎さんに初めてお会いしたのは86年。周防大島の南端にある沖家室島の元気なお年寄りを取材に行ったときで、福島さんは当時は周防大島で自給自足の生活を実践していた。そのとき以来のご縁で、最近は菊次郎さんの講演会や写真展を企画したりしてきた)
酪農家の取材は順調だった。が、隣りの家のご主人に呼び止められ、枯葉や枝などを焼いた灰の上で放射線量を計って驚いた。毎時20マイクロシーベルトを超えていたのだ。放射性物質が焼却によって濃縮されたためだ。話を伺うと、この家のご主人は原発作業員を20年やってきた人で、3月11日まで福島第一原発で働いていた人だった。菊次郎さんがこの時とばかりに、いろいろとご主人に訊ねたのはいうまでもない。
そして、翌日が「さようなら原発」の取材となったのだ。
さいごに、私が好きでよく引用する菊次郎さんのことばがあるので知ってほしい。
菊次郎さんは上関原発の反対運動を最初から取材してきたが、この20年間、ずっと祝島島民の反対運動に密着して写真集として出版した那須圭子さんは、菊次郎さんの弟子のような存在。その那須さんの写真集『中電さん、さようなら 山口県祝島原発とたたかう島人の記録』は必見だ。
PS:fotgazetVol.3では、菊次郎さんの広島の被爆者を撮影した写真を16ページにわたって大特集しています。
大特集は「時代の証言者たち」広島・長崎・水俣・福島とつづきます。詳細はこちらをクリック。fotgazetはフリーランスのジャーナリスト10数名でつくるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)が独自に編集して発行する年4回発行の有料購読オンラインマガジン。フリーランスの活動を購読もしくは寄付で支えてください。
転載元: 情報収集中&充電中