<span itemprop="headline">宮川×米良クリスマスコンサートと杉本健吉展</span>
今年10月にオープンした東海市芸術劇場に
初めて行きました。
3面6線で、1階がコンコース、2・3階が乗り場となる名鉄初の3層構造の高架駅で、帰りは同じ名古屋方面行きでも
2・3階どちらに停車するのか、ちゃんと標示観てないと駄目です。
前回の宮川さんと米良さんのコンサートが
あまりに楽しかったのに
驚きました。
お小さいころから先天性骨形成不全症
や
両腕も伸ばせない症状のため、手を重ねて歌う姿に小学生時代には執拗ないじめを受け
病気のため大好きな御両親とも暮らせず寄宿舎生活
私が米良さんを知ったのは
CD『母の唄』からです。
宮崎駿さんがラジオで放送された米良の楽曲を聴いて感銘を
受けもののけ姫に繋がりました。
バッハ・コレギウム・ジャパンとの共演含む)の公演を生まで
聴いたので
美声が懐かしい。
今回のコンサートまだ具合悪そうでお気の毒でした。
宮川さんはお父様が大ヒットメーカーの宮川泰氏
ザ・ピーナッツの歌が有名ですがちなみにこの姉妹は
ザ・ピーナッツの動画を前に載せましたが、
こんなに歌が上手かったとは、
それに昔の歌謡曲は詩もメロディーもプロで一度聴いたら忘れられない曲が多いですね。
良いミュージカルもそうなんですが。
宮川 彬良(みやがわ あきら)さんは
クラッシック・ミュージカルでご活躍
↑の番組好きでした。
今回の拾いものは宮川さんお気に入り
ダイナマイトしゃかりきサ~カス関西発3人組の美声を聴いたこと
特に女性二人の声に癒されました。
ボーカルエンターテイメントグループ。歌謡曲からゴスペル、ディスコまで!
それにここで杉本画伯の絵に再会できるとは!
ポスターの中の緞帳は杉本作、最初の画像は名古屋能楽堂の若松
愛知県名古屋市生まれ。1923年に旧制愛知県立工業高校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る、26年に「花」で春陽会に初入選。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。1971年、画壇(国画会)よりの引退を表明。しかし、画家としての創作は続ける[1]。
1987年、名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)。
名鉄3780系電車(ライトパープル)[2]・名鉄7000系パノラマカー(スカーレット)・名鉄交通のタクシー(エメラルドグリーンとアイボリーホワイトのツートンカラー)や名古屋市営地下鉄東山線(ウィンザーイエロー)の車両色 青柳ういろう(小野道風の故事をもとに、柳に飛びつくカエルの姿を図案化)や、中部電力(「電」を図案化)・名鉄百貨店(「名」を図案化)の社章(いずれも初代) 名古屋市営地下鉄のマーク(地下鉄のトンネルと線路を図案化)のデザイン 常滑市の市章(「常」の字を図案化)のデザイン 東大寺が経営する東大寺学園中学校・高等学校(奈良市山陵町)において、中学棟・高校棟を繋ぐ「転心殿」を榊莫山と合作し、同校へ寄贈した 大須観音の鐘楼堂の華精の鐘(女人梵鐘)のデザイン(四面の池の間に、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊、その中心に、華の精の姿を描く) 吉川英治が亡くなった時、杉本健吉は感謝の意を込めて、新・平家物語の主人公に囲まれた吉川英治の絵と手紙を描いた。 名古屋能楽堂が完成し、その鏡板(舞台の背景)の制作を担当した際、他の能楽堂では定番となっている老松を描くところを、杉本健吉は若松を描いたため物議を醸した。これに対し本人は「できたばかりだから元気が良く若々しい松の方が似合う」「伝統に決まったものはない」と語っていた。後に老松の鏡板も描かれ、隔年で配置されている。 晩年「(やりたいことを)行えばいいんです。私の場合は自然の中でたわむれているうちに絵ができた。それが私の人生だった。」との言葉を残している。
太田川駅前に建設される東海市の顔にふ さわしい 作家の童門冬二氏(平洲記念館名誉館長 )の著作や解説を基に、郷土の偉人である細井平洲先生. をはじめとした姉妹 ... 常設 展示:「恕」の精神と先人、平洲先生の人生と業績、童門氏の紹介及び著作等の展示 ほか.
「嵐に叫ぶ」