riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">プレ啓蒙君主、尾張藩主徳川宗春</span>


のちに尾張徳川7代藩主になった宗春は若いころは吉宗に可愛がられたのに、その後は政策の違いで睨まれ肖像画も残っていない。



大須観音の宗春からくり時計の一部

↓のサイトに
http://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/23.html大きな画像あります。



先日のBS番組で宗春は死刑をやらなかった、民のための政策を取った、プレ啓蒙君主と言われていたのに、全国的には無名に近いらしい。それでは

芸処の名古屋人は寂しいので改めて調べてみました。

藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」
と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。

その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。

江戸時代は10両盗めば市中引き回しの上のこぎり引き等残酷な処刑が行われていたのに、宗春は死刑を命じなかった。

恋愛御法度の時代なので男女の心中事件が多く実行するものは処罰され非人などに落とされたが宗春は寛大だった。

心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動,

宗春の特異な政策[編集]

  • 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
  • 人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
  • 奪い合うことや義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
  • 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
  • 法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
  • 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
  • ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
  • 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)
  • 庶民と上級藩士が出会う場を提供した(例:御下屋敷や市谷邸のお披露目 等)
  • 商人との対話を積極的にした(例:岐阜巡行・乾御殿や御下屋敷滞在時)
  • 六斎市の奨励(歴代藩主の中で、許可した例が突出して多い)
  • 庶民が喜ぶことをした(例:奴振り・白牛・漆黒の馬と衣装・派手な衣装)
  • 社会的な弱者を大切にした(例:女性・子ども・身分の低い者の保護)
  • 死刑をしなかった
  • マニフェストであり家訓でもある『温知政要』を執筆し、上級家臣に配布した
隠居後も宗春は、将軍吉宗から拝領した朝鮮人参を下屋敷で大切に育てていたが、のち宗睦は宗春が育ててきた薬草園を用いて、名古屋の医学を大いに発展させる。[
宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺建中寺への参拝、尾張藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、尾張藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。
明和元年10月8日1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。