riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">沖縄戦米収容所で6400人死亡!+沖縄のカメラマン平敷兼七</span>

沖縄戦終結の記念日が近ずいてきましたが今朝の中日に
で6400人死亡 民間人、栄養失調や感染症
写真
 米軍が一九四五年四月に沖縄本島に上陸して以降、占領地域に設けた収容所で計約六千四百人の民間人が死亡していたことが、本紙と沖縄社会経済史研究室主宰の川平(かびら)成雄・元琉球大教授の共同調査で分かった。各地の収容所の総人数はピーク時に三十三万人を超え、栄養失調や感染症による死亡者が続出。米軍の保護下での食糧不足などで、収容された住民に多大な犠牲が出ていた実態が浮き彫りとなった。
 米軍は沖縄戦で、占領した地域から順に軍政を敷き、民間人収容所を設けた。共同調査では、少なくとも二十二カ所の収容所で計六千四百二十三人の死者が出ていたことが判明。各地の収容所は統廃合の末、四五年十月ごろには十六カ所に集約され、大半が四六年までに閉鎖された。
 収容所の所在地を現在の自治体に当てはめると、うるま市以北の名護市宜野座村など、沖縄本島北部四自治体にあった十三収容所の死亡者が計約三千四百人に上り、全体の半数以上を占めた。日本軍が四五年五月に南部に撤退した後、米軍は取り残されたりした中南部の住民の大半を北部の収容所に送り、死者数も増えた。死亡者数が最も多かったのは、南部の知念(現南城市)の収容所で二千四十二人。
 死因が判明しているのは一部の収容所に限られるが、大川(現名護市)ではマラリア感染で七百人が死亡し、汀間(ていま)(同)の死者二百三十六人のうち、半数近くの九十八人の死因が胃腸病だった。
編集委員・吉原康和)

◆収容所単位で抽出

 <調査の方法>調査は、米軍の民間人収容所で亡くなった住民の死者数を、収容所単位で抽出することに主眼を置いた。
 死亡者の氏名、年齢、出身地、死没年月日などが記された古知屋(こちや、現宜野座村)や瀬嵩(せだけ、現名護市)など四カ所の収容所の共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳をはじめ▽住民への聞き取り調査などに基づく収容所に関する市町村史▽収容所に勤務していた米兵の日誌-などに記述がある収容所の死者数を集計。自治体には可能な限りデータの根拠を確認した。
 市町村史に出身者の死者数の記録があっても、共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳にその市町村出身の死亡者名がある場合は、重複を避けるため集計から除外した。中日新聞より

戦争中の被害が多かったのは知っていましたが降伏後もこんなに犠牲者がいたとは、痛ましい事です。

幼子と高齢者、際立つ擬制新聞7面には痛々しい裸の子供たちの写真があります。
沖縄の人は死者に対して深い尊敬の念を持って埋葬。

沖縄戦で民間人は13~14万人の死者、軍人9万4千人の戦死者よりはるかに多い。

その後は米軍に土地も取り上げられ危険と背中合わせの生活が続いています。

以前有名な白旗の少女が私の叔母さんと言ってた女性がいました。

今日の日曜美術館
石川竜一が足跡を辿る「沖縄 見つめて愛して 写真家・平敷兼七」



石川さんは宇多田ひかるを撮った若いカメラマン

貧しい沖縄の人々を撮影し続けた平敷兼七

沖縄を救った夜の女性たち

平敷兼七の言葉

望遠も使っちゃいけない。
相手の息がわかる程近ずいて接写しなさい。
何回も通いなさい
何回も撮りなさい。

あの人ほど被写体の人間性を
まるごと表現していた人はいない
ただへしさん(平敷兼七)から写真教わるようになって貧乏になった
と吉見さん。



街を掃除する老人


病院に通い心を病んだ人々を撮影。
表面を飾らない自然な表情は人間の美しさとはなにかと
問いかけてくる。

平敷兼七と対談したことがある一青 窈がナレーション勤めています。



追記
平敷兼七の小学校もいけなかった祖父の姉、
戦後戦災孤児の面倒を観た、その写真の笑顔

沖縄の底辺の生活を記録したい

これが撮るべきもの

写真家としての原点は「料亭」の女性

10年20年かけてそういう女性と関係作り撮影

彼女たち派家族を養うために寄るの女になったが
しばらくすると彼女たちから目をそらすようになった社会

可哀想と言う気持ではシャッターは切れない

上から目線ではあそこまでは入れない

彼女たちこそ沖縄を救った

この写真を写すためには一切己を出すことが出来なかった。

ただただ話を聴くだけであった。
撮る写真ではなく影を写す。

表からは見えない影の部分、彼女たちをすくい取ろうとした。

出会った人々を通して

ウチナンチュウとは何か。

人間とは何かと言う生涯にかかわるテーマが見えてきた。

5人の子を養う父であった平敷
写真では食べられない。

そんな時に現れたのが中條朝と言う青年