<span itemprop="headline">京都女子大の錦華殿の中へ♪</span>
平重盛の「積翠園」の見学の後は女坂登り京都女子大の錦華殿へ、
数年前、外観見たのですがこの日は中に入れました。ラッキー
無料です。 ↓立派なお顔の女性たち、3人はこの女子大作るのに尽力されました。女に学問は入らないの時代です。
九条武子は京都女子大を作り、関東大震災の被災者救援に42年の短い生涯をささげた人。
その時彼女の歌集の印税でつくったあそか病院は今もある!
久々に舞台見ながら泣けて困りました。
貧しいゆえに盗みを働く女性や少女も登場しますがこのお姫さんはわけ隔てをしない。
その時一人の老人が現れまだやるべきことがあるだろうと助けられる。
阿弥陀様に生かされてると悟る武子。
割烹着姿の武子がいた。
歳末無料巡回診察も始めた。
不幸な少女や女性のための厚生施設六華園なども設立。
昭和3年高熱を発し生母や夫、兄、宗門の人、長屋の人に見守られて
南無阿弥陀仏の唱和の中浄土に旅たっていったのである。
子供の時に見た「蟻の町のマリア」を思い出しました。彼女もやはり貧しい人に献身的に尽くし28歳という若さで亡くなっている。
京都女子大学の創始は明治32年(1899)、甲斐和里子が松田甚左衛門の助力を得て設立した私塾にさかのぼります。以来、仏教精神に根ざした建学の理念のもと、女性の地位向上と教育に力を注いできた京都女子大学。その歴史を見つめつづけてきた、「錦華殿」とよばれる一つの建物がありました。
円形のバルコニーが特徴のこの建物は、明治31年、西本願寺第22代門主・大谷光瑞師と籌子裏方の新居として建てられた、フランス様式の洋館。女子高等教育の必要性を痛感されていた籌子裏方は、光瑞門主の妹、九條武子西本願寺仏教婦人会連合本部長と、この「錦華殿」において女子大学設立構想をふくらませ、実現に向けての活動をはじめました。そして、明治43年(1910)、仏教婦人会の援助を受けた私塾「文中女学校」は、「京都高等女学校」として新たな歴史を刻むことになり、籌子裏方、武子本部長、和里子女史の情熱は、京都女子大学の前身である「京都女子高等専門学校」の設立によって実を結びます。
人柄はボーイッシュ、ユーモアを好む、活発、ジョークが上手、勉強熱心、秀才、誠実、男まさり、と表現されている。また、自己に厳しく、前向きに明朗な人格づくりを心掛けていたという。
大谷 籌子(おおたに かずこ、1882年11月5日 - 1911年1月27日)は西本願寺法主・ 大谷光瑞の妻(西本願寺裏方)であり、女性組織仏教婦人会などで活躍、女子高等教育 の必要性をとき九条武子とともに京都女子大学設立の推進者となった人である。
1882年(明治15年)九条道孝の三女として生まれる。妹は、大正天皇の后である貞明皇后(九条節子)である。11歳のとき大谷光瑞(当時17歳)と婚約し、西本願寺に住むこととなる。光端の妹、大谷武子(のち九条武子)とは、そのころより大変仲がよかったといわれている。6年後、17歳で結婚し、西本願寺裏方、および仏教婦人会総裁となる
屋根飾り?