riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">京都女子大の錦華殿の中へ♪</span>

平重盛の「積翠園」の見学の後は女坂登り京都女子大の錦華殿へ、
数年前、外観見たのですがこの日は中に入れました。ラッキー

明治の貴婦人が出てきそうな館



無料です。 ↓立派なお顔の女性たち、3人はこの女子大作るのに尽力されました。女に学問は入らないの時代です。



この女子大を作った九条武子は美女で有名、
日本のマザーテレサ、如月の人九条武子物語
前進座の芝居を2015年に鑑賞。
九条武子は京都女子大を作り、関東大震災の被災者救援に42年の短い生涯をささげた人。
その時彼女の歌集の印税でつくったあそか病院は今もある!


久々に舞台見ながら泣けて困りました。
貧しいゆえに盗みを働く女性や少女も登場しますがこのお姫さんはわけ隔てをしない。

関東大震災築地本願寺は崩れることはなかったがもっと恐ろしい火災が起きた。油断し逃げ遅れた武子は、炎の中地割れに落ちてしまう。
その時一人の老人が現れまだやるべきことがあるだろうと助けられる。

阿弥陀様に生かされてると悟る武子。

翌年の初冬日比谷公園本願寺震災救護班のテントに
割烹着姿の武子がいた。
歳末無料巡回診察も始めた。
不幸な少女や女性のための厚生施設六華園なども設立。

昭和3年高熱を発し生母や夫、兄、宗門の人、長屋の人に見守られて
南無阿弥陀仏の唱和の中浄土に旅たっていったのである。

惜しいことにこの震災のどさくさに労働組合員や大杉栄伊藤野枝・橘少年(名古屋覚王山に橘少年のお墓があります。)や罪のない朝鮮人が井戸に毒を入れたとして多数虐殺されたことは話されなかった。

子供の時に見た「蟻の町のマリア」を思い出しました。彼女もやはり貧しい人に献身的に尽くし28歳という若さで亡くなっている。

京都女子大学の創始は明治32年(1899)、甲斐和里子が松田甚左衛門の助力を得て設立した私塾にさかのぼります。以来、仏教精神に根ざした建学の理念のもと、女性の地位向上と教育に力を注いできた京都女子大学。その歴史を見つめつづけてきた、「錦華殿」とよばれる一つの建物がありました。
円形のバルコニーが特徴のこの建物は、明治31年、西本願寺第22代門主大谷光瑞師と籌子裏方の新居として建てられた、フランス様式の洋館。女子高等教育の必要性を痛感されていた籌子裏方は、光瑞門主の妹、九條武子西本願寺仏教婦人会連合本部長と、この「錦華殿」において女子大学設立構想をふくらませ、実現に向けての活動をはじめました。そして、明治43年(1910)、仏教婦人会の援助を受けた私塾「文中女学校」は、「京都高等女学校」として新たな歴史を刻むことになり、籌子裏方、武子本部長、和里子女史の情熱は、京都女子大学の前身である「京都女子高等専門学校」の設立によって実を結びます。



九条武子らのドレスの再現
その後、「錦華殿」は大正9年(1920)に現在のキャンパスに移築され、学園の建学記念館として、数多くの在学生に愛されてきましたが、昭和56年(1981)、老朽化のために残念ながら解体せざるを得ませんでした。この消失を憂いた同窓生の「建学の精神の拠り所として、永く後世に伝えたい」との熱意により、「錦華殿」の復興計画が進められ、同窓会、京都女子学園維持会、卒業生、保護者、教職員等、有縁の方々からの建築資金の寄付を受けて、平成12年(2000)に再建(復元)、往時の麗容を鮮やかに蘇らせました。
再建にあたっては、出来る限り忠実に再現するため、解体時に保存した手すりや装飾部材などを積極的に再利用し、カーテン、天井クロスなどは、原型に近い風合いと色彩を再現しています。また、耐震性・耐火性に配慮し、鉄筋コンクリート造としました。
「錦華殿」は100年間に及ぶ本学園の歴史と伝統を語り、そして在学生一人ひとりの輝かしい未来をこれからも見守りつづけていきます。

甲斐 和里子(かい わりこ、1868年慶応4年)6月3日 - 1962年昭和37年)11月27日)は、日本教育者京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。
人柄はボーイッシュ、ユーモアを好む、活発、ジョークが上手、勉強熱心、秀才、誠実、男まさり、と表現されている。また、自己に厳しく、前向きに明朗な人格づくりを心掛けていたという。


大谷 籌子(おおたに かずこ、1882年11月5日 - 1911年1月27日)は西本願寺法主大谷光瑞の妻(西本願寺裏方)であり、女性組織仏教婦人会などで活躍、女子高等教育 の必要性をとき九条武子とともに京都女子大学設立の推進者となった人である。

1882年(明治15年)九条道孝の三女として生まれる。妹は、大正天皇の后である貞明皇后九条節子)である。11歳のとき大谷光瑞(当時17歳)と婚約し、西本願寺に住むこととなる。光端の妹、大谷武子(のち九条武子)とは、そのころより大変仲がよかったといわれている。6年後、17歳で結婚し、西本願寺裏方、および仏教婦人会総裁となる


屋根飾り?

















バルコニーからの眺め




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建物東に庭園あり









錦華殿は、大谷光瑞師(本願寺第22代-鏡如上人)と籌子裏方の御婚儀にともなう新居として、明治30年代に本願寺百華苑内に建てられたフランス様式の木造建築物であり、大正9年京都女子学園に移築されたものである。
それから60年あまり、学園のシンボルとして東山にその麗容を誇っていたが、昭和56年、老朽化のために、惜しくも解体の止むなきに至った。
昭和60年、京都女子学園同窓会(藤陵会)は、「錦華殿再建趣意書」を故二葉憲香学園長に提出、これにより同学園長は建学記念館として錦華殿を再建することを決断した。
そして、同窓会、維持会、教職員、保護者等から建築資金の寄贈を受け、更に建築用地の拡大買収等を経、平成10年12月に着工、平成12年2月の竣工に至ったものである。
願わくば錦華殿が、京都女子学園の建学の精神を常しえに伝承するよりどころとして、教職員、学生、生徒、児童、園児、その他有縁の方々の心に、無量の法爾をそそぎ続けられることを念じる。
合掌


女子大入り口



ステンドグラス!


奈良正倉院近くに工場が有り今はカフェがあります~
その隣の赤い屋根の家が気になります。