riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">光悦寺の紅葉</span>


源光庵から歩いてすぐ光悦寺へ行けます、ここにもPあり。





拝観料の他に説明を頼んだら(300円だったか)3枚のポストカード頂きました。
蔵のような資料館で光悦等の作品を見せてもらいました。

大きな耳のウサギの作品等撮影出来ないのが寂しい。


7つの茶室あり。








有名な光悦垣が見えてきました。


まっすぐでないのがいいですね。自然は直線ではない
イングリシュガーデンも同様。








開けるとパッとこの鷹峰が~これもイングリシュガーデンでお馴染


光悦の墓も有ります





本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家陶芸家芸術家寛永の三筆の一人と称され、その書流光悦流の祖と仰がれる。
刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。京ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。
光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。
俵屋宗達尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。
孫の本阿弥光甫も陶芸家として著名であった。