riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">日常の中に入り込む戦争の予兆</span>

「戦争が廊下の奥に立っていた」という俳句。
普段の日常の暮らしの中に、いつのまにか非日常の戦争が
忍び寄ってきていたというおそろしい様子を謳っています。
「廊下の奥に」なので、暮らしに中にすでに深く入り込んでしまって
いて、もはや後戻りできない状況ということなのでしょう。

作家の中島京子が「平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反する
ものではなく、気味悪くも同居してしまえる」と語っています。

   政治家や軍人、官僚など、歴史を動かす決断をした人たちではなく、
  一般の人々にとって、あの時代はどういう時代だったのか、なぜ戦争
  に向かっていったのか?
  当時の記録に触れると、文化的には円熟期であり、都会の市民層には
  教養もあり、分別もあり、平和主義的な傾向すらあったように見える。
  しかし、歴史の教科書が教えるように、軍国主義が力を持ち、他国を
  侵略し、おびただしい犠牲者を出した時代だ。その明るくて文化的な
  時代と、暗くて恐ろしい残酷な時代がどう共存していたのか、
  どこで反転したのか?
  私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人々の日記などを
  読んだ。出来るだけ当時の考え方、価値観がわかるものを調べた。
  するとだんだんわかってきた。そこには、恋愛も、親子の情も、友情も
  美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。
  いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしが
  あった。  
   一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な
  宣伝に簡単に騙されてしまう主体性のなさも、浮かび上がってきた。
  豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争はどこか遠い何処か
  で行われている他人事のようだった。
  廬溝橋で戦火が上がり(1937年)日中戦争が始まると、東京は好景気
  に沸いてしまう。都心ではデパートが連日の大賑わい。調子に乗って
  外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様
  たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴」なんて、デパートから戦地
  へ「直送」してもらっていたようだ。戦闘の事実は市井の人々から遠か
  った。これは1939年の「朝日新聞」の記事から読み取れる。
  廬溝橋事件からは2年が経過している。しかし、この後、戦況は願った
  ような展開を見せず、煮詰まり、泥沼になってきて、それを打開する
  ためにと言って、さらに2年後に日本は太平洋戦争を始める。
  また勝って景気がよくなるのだと人々は期待する。
  しかしそうはならない。坂を転げ落ちるように敗戦までの日々が流れる。
  人々の無関心を一方的に責めるわけにはいかない。戦争が始まれば、
  情報は隠され、統制され、一般市民の耳には入らなくなった。
  恐いのは、市井の人々が、毒にちょっとずつ慣らされるように、
  思想統制言論弾圧にも慣れていってしまったことだ。  
  現代の視点で見れば、さすがにどんどんどんどんおかしくなっていっ
  ているとわかる状況も、人々は受け入れていく。当時流行していた言葉
  「非常時」は、日常の中にすんなりと同居していってしまう。
  日常の中に入り込んでくる戦争の予兆とは、人々の慢性的な無関心、
  報道の怠惰あるいは自粛、そして法整備などによる権力からの抑圧の
  3つが作用して、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿状態が作られ
  ることに始まるのではないだろうか。その状態が準備されたところに
  本当の戦争がやってきたら、後戻りすることはほんとうに難しくなる。
  平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反するものではなく、
  気味悪くも同居してしまえるのだと、歴史は教えている。
               (2014年8月8日 朝日新聞より抜粋)


転載元: はんのき日記 PART2