riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">こんなに付箋貼った本はありません、1945年のクリスマス</span>



棟方さんが渡米した話はわらび座のミュージカルで知りましたが
招聘した人がベアテさんだったとは

「天衣無縫の国際人棟方」



日本国憲法に必死の思いで(彼女の父はリストの再来と言われたほどのピアニストで、来日、ベアテさんは少女時代を日本で過ごし何の権利もない惨めな日本女性を観ていたから。)

男女平等を盛り込んでくれました。

当時の担当者たちは理想の国を目指して世界の先進的な憲法を研究。

日本の憲法学者高野岩三郎の名前も出てきました。

ベアテさんのことは

随分前ジェームス三木脚本の「真珠の首飾り」
を観たので
知っていましたが

米国に行った後の芸術監督としての仕事はこの本で知りました。

ベアテさんでさえ子供育てながらの仕事探しは苦労が多かったのです。

6ヵ国語話せて海外生活の経験もありなのに。

夫は理解ある人で教授にもなれたのに生活のために
不動産の仕事をしました。

ベアテさんの才能を発揮させたかったのでしょう。

当時珍しい人でしょう。素晴らしい。
両家の娘は大学出ても働かず、専業主婦が多い時代でした。

6ヵ国語話せて海外生活の経験もありなのに。



右上の写真真ん中で立ってる女性が市川房枝

市川房枝
を姉のように案内し大統領にインタビュー
まだ女性が働くことが少なかった保守的な米国の女子大生に講演

始めは懐疑の女子大生も…



そのほか、淡路人形や京劇などアジアの芸術団を招いて
公演させた素晴らしい業績。

感謝し尊敬しているベアテさんの芸術的な面を知ることができ
パワーを貰えます。

ジョン・レノンから籠一杯のプレゼントが
届いた

この本紹介しきれません、ぜひお読みください。


22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草人権条項作成に関与した。 日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。戦後はニューヨークに居を構え、ジャパン・ソサエティ、アジア・ソサエティのプロデューサー・ディレクターとして世界の民俗芸能を米国に紹介。アジア・ソサエティを退職後、パフォーミング・アーティストを集めて世界中を公演するキャラバン(文化交流事業)の実現を目指した。



つ星のうち 5.0戦後日本へのかけがえのない贈りもの投稿者 joon 投稿日 2012/12/21
形式: 単行本
この本は、ベアテさんが1945年のクリスマス・イヴの日に、日本に帰る風景から始まります。

アメリカ、イギリス、ドイツのワイマール憲法、フランス、ソ連スカンジナビア諸国の憲法に関する書籍を、焼け残った図書館と大学を回って集め、読める六か国語を駆使して特に参考になるものを見つけ、確固たる信念を持って「憲法」の人権条項の部分の草案を書かれました。

本書を読み進めて行く途中で、何か所も付箋を貼る箇所が出てきました。以下はその一部です。

「とにかく、戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よくつくるのだなという傲慢な雰囲気はなかった。自分たちの理想国家をつくる、といった夢に夢中になっていた舞台だったような気がしている。」(p.177)
軍人と言っても、本職は弁護士、大学教授、ジャーナリスト、医師、実業家などで、医学や理工系から文化系まで幅広く学んだ人が多い。
ラウエル氏は高野岩三郎氏を中心とする憲法研究会の草案に好意的な説明をつけて報告している。

またベアテさんは、
軍国主義時代の日本で育った私は、心配だったのだ。日本民族付和雷同的性格と、自分から決して意見を言いだそうとしない引っ込み思案的な性格、しかも過激なリーダーに魅力を感じる英雄待望的な一面は、昭和の誤った歴史を生み出した根源的なもののように思う。日本が本当に民主主義国家になれるのかという点で不安を持っていた。だからこそ、憲法に掲げておけば安心という気持ちから、女性や子供の権利を饒舌に書いたのだった。その気持ちは、当時の日本を少しでも知っている人なら、理解し賛成してくれるはずだ。」(p.193)
そして、国民の一人ひとりが関心を持って、憲法に保障された権利を守る努力をすることが大事と語る。

「当時の民生局員は、私ばかりではなくみんな理想国家を夢見ていた。戦勝国の軍人とて、家族や恋人を失った人は多かった。私もその一人だし、みんな戦争には懲りていた。」(p.207)
戦争を放棄した日本は、普遍的な政治道徳に支えられなければならない。

アメリカでの文化交流活動の仕事では、
「ジャパン・ソサエティにやってくる日本人は、それぞれの分野の第一人者だったから、その人たちと接することは大変な勉強になった。彼らは、私が戦前の東京で育ったことを言うだけで、心を開いてくれて、弟子にも言わない伝統芸能の極意を教えてくれた。それを知るたびに、この素晴らしい文化を、我が物顔で世界を闊歩しているアメリカ人に伝えなければならないと思うようになった。ギリシア・ローマ文明の伝統をひくものだけが、世界の文化ではないことを知らせなければ…。それをするのは、日本で育った私の使命であるように思えた。」(p.247)

御両親共に日本を理解し、良さを認め、日本人のために尽力してくださったベアテ・シロタ・ゴードンさんには、深く感謝しています。