riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

続「あるアトリエの100年」岡田八千代と古沢岩美

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この鮮明なカラーフィルムをご覧ください。当時発売されたばかりのフィルムを岡田三郎助が買い、
弟子たちを撮影していました。動画です。
白黒の16ミリは雨が降りみにくいのに。
 
この女性画家たちは誰なのか?
この古いアトリエで沢山の16ミリが発見されました。
 
友人が親の家かたずける時、私は貴重な写真が有るかもしれないから
簡単に捨てないでと頼みました。
 
はたして彼女の先祖は御殿医野家系、北里柴三郎と先祖の記念写真も出てきました。
 
私の母の写真でさえ愛知の女性史の本作る時、採用されました。
皇居の名目でなければ修学旅行も無理だった
 
捨てるの、流行っていますが中には大事な物が有るかも
 
二度と再生不能です。
 
下は皆さんもご覧になられたことが有ると思います。岡田の
「あやめの衣」
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この映画で一番興味惹かれたのは岡田の妻の八千代と古沢岩美です。
 
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パリの岡田と八千代。
 
八千代はもうすでに家を出ていました
 
 
 
山梨県に彼の美術館が有ります、観たいです。
この画家知らなかった(恥)
 
妻の八千代は何と小山内薫の妹
兄よりも先に本を出し、のちには劇作家、青踏顧問!
 
画家の妻と作家は両立しないといいつつも始めはモデルとしても尽くしていたのですがある時家を出ます
 
カッコいい、でも岡田も籍も抜かず、パリに行った時は八千代と
あっています。
 
岡田はいわさきちひろや愛知県一宮の三岸節子たちを指導しました。
 
 
 
東京・恵比寿にある古いアトリエから発見された16ミリフィルムをもとに、日本近代美術の夜明けを担った芸術家たちにスポットを当てたドキュメンタリー。黒田清輝、藤島武二らと共に日本の洋画草創期を牽引した洋画家・岡田三郎助が、1908年に恵比寿に建てた1軒のアトリエ。後進の教育にも力を注いだ三郎助は、アトリエの隣に創設した女子洋画研究所などで指導にあたり、有馬さとえ、森田元子、いわさきちひろら様々な分野の芸術家たちを世に送り出した。三郎助の妻・八千代は、小説・劇評・劇作などの分野における日本人女性の先駆的存在として活躍。そして、このアトリエを引き継いだ洋画家・辻永も、戦後の日本洋画界をまとめるために尽力した。16ミリフィルムに収録されていた昭和初期のアトリエと芸術家たちの姿を生き生きと映し出すと共に、関係者へのインタビューや美術館などの取材を通し、明治以降の時代の変遷の中で西洋美術を日本の風土に定着させた彼らの足跡をたどっていく。
 
アトリエの中は石膏等絵を描くのに欠かせないグッズで一杯。
 
引用です。
 

岡田三郎助アトリエ保存へ 県立博物館横に移築

県、18年度内に 多目的な活用を目指す

2017年01月10日 09時06分

 近代日本洋画壇の巨匠で佐賀市出身の洋画家、岡田三郎助(1869~1939年)が使っていたアトリエ(東京都渋谷区恵比寿)を、佐賀県佐賀市の県立博物館横に移築し、保存することになった。明治末期に建てられたアトリエが現存している例はほとんどなく、「岡田コレクションを充実させる上で貴重」と判断した。建物内のアトリエ2部屋を2018年度内に移築完了し、画家の滞在制作やカフェ、講義室など多目的な活用を目指す。
 アトリエは1908(明治41)年に建てられた木造洋風建築。調度類や荷物入れ、絵の具箱、石膏(せっこう)像などが現存し、絵画「少女読書」の背景に描かれた窓枠も残っている。昭和初期に増築された部屋は、岡田主宰の画塾「女子美術研究所」の教室として使用していた。
 2部屋合わせて約100平方メートル。昭和に入って増築した住居部分を含めると建物自体(2階建て)は200平方メートル近くになる。岡田の死去後、弟子の洋画家・辻永(ひさし)がアトリエを譲り受け、現在はその親族が所有している。
 アトリエは路地から入り組んだ場所にあったため、美術関係者にもその存在がほとんど知られていなかったという。2013年、明治期の文化財調査の一環で、東京大大学院工学系研究科の藤井恵介教授(建築学)が調べた。14年に所有者側が建物を寄贈できるかどうか、県立美術館・博物館に相談した。譲渡内容は最終調整している。
 県は昨年11月補正予算で調査・基本設計費として1300万円を計上、12月には専門家が現地を視察した。計画ではアトリエ2部屋を県立博物館東側にあるカフェ近くの空きスペースに移築する。新年度当初予算案に移築保存費約1億5千万円を組む方針。国の地方創生拠点整備交付金を見込む。交付金が下りない場合は県費単独で予算化することも検討する。
 藤井教授は「画家が使用したアトリエとして明治期当初の姿をよくとどめている例はほかにない」と高く評価する。現存するアトリエ建築物は昭和初期が主で朝倉彫塑館(東京)や小林古径邸(同)など数少ない。
 メーンの収蔵品として日本最大の岡田コレクションを有す県立美術館・博物館の竹下正博学芸員は「この機を逃せば、建物が老朽化しており保存は難しい。最初で最後のチャンス」と移築の意義を説明する。
引用終わり
画家のアトリエは北側に大きな窓が有りますね。
http://www.saga-s.co.jp/images/article/2017/01/10/SAG2017011099000018_id1_20170110091015.jpg
アトリエ内を写した当時の写真。岡田三郎助(右)と妻の八千代が映っている(明治42年撮影、昭和17年刊行の「畫人岡田三郎助」より)
http://www.saga-s.co.jp/images/article/2017/01/10/SAG2017011099000018_id2_20170110091015.jpg
岡田三郎助が使用したアトリエ。昭和初期に入り、女子美術研究所(奥)のアトリエが増設されている=東京都渋谷区恵比寿
http://www.saga-s.co.jp/images/article/2017/01/10/SAG2017011099000018_id3_20170110091015.jpg
「少女読書」の背景に描かれている窓枠も現存する=東京都渋谷区恵比寿

 画家のアトリエには北側に大きな窓が有りますね、稲沢の荻須記念美術館のアトリエの再現もそうです。

 

岡田三郎助アトリエ保存へ 県立博物館横に移築

県、18年度内に 多目的な活用を目指す

2017年01月10日 09時06分

アトリエ内を写した当時の写真。岡田三郎助(右)と妻の八千代が映っている(明治42年撮影、昭和17年刊行の「畫人岡田三郎助」より)
アトリエ内を写した当時の写真。岡田三郎助(右)と妻の八千代が映っている(明治42年撮影、昭和17年刊行の「畫人岡田三郎助」より)
岡田三郎助が使用したアトリエ。昭和初期に入り、女子美術研究所(奥)のアトリエが増設されている=東京都渋谷区恵比寿
岡田三郎助が使用したアトリエ。昭和初期に入り、女子美術研究所(奥)のアトリエが増設されている=東京都渋谷区恵比寿
「少女読書」の背景に描かれている窓枠も現存する=東京都渋谷区恵比寿
「少女読書」の背景に描かれている窓枠も現存する=東京都渋谷区恵比寿

 近代日本洋画壇の巨匠で佐賀市出身の洋画家、岡田三郎助(1869~1939年)が使っていたアトリエ(東京都渋谷区恵比寿)を、佐賀県佐賀市の県立博物館横に移築し、保存することになった。明治末期に建てられたアトリエが現存している例はほとんどなく、「岡田コレクションを充実させる上で貴重」と判断した。建物内のアトリエ2部屋を2018年度内に移築完了し、画家の滞在制作やカフェ、講義室など多目的な活用を目指す。

 アトリエは1908(明治41)年に建てられた木造洋風建築。調度類や荷物入れ、絵の具箱、石膏(せっこう)像などが現存し、絵画「少女読書」の背景に描かれた窓枠も残っている。昭和初期に増築された部屋は、岡田主宰の画塾「女子美術研究所」の教室として使用していた。

 2部屋合わせて約100平方メートル。昭和に入って増築した住居部分を含めると建物自体(2階建て)は200平方メートル近くになる。岡田の死去後、弟子の洋画家・辻永(ひさし)がアトリエを譲り受け、現在はその親族が所有している。

 アトリエは路地から入り組んだ場所にあったため、美術関係者にもその存在がほとんど知られていなかったという。2013年、明治期の文化財調査の一環で、東京大大学院工学系研究科の藤井恵介教授(建築学)が調べた。14年に所有者側が建物を寄贈できるかどうか、県立美術館・博物館に相談した。譲渡内容は最終調整している。

 県は昨年11月補正予算で調査・基本設計費として1300万円を計上、12月には専門家が現地を視察した。計画ではアトリエ2部屋を県立博物館東側にあるカフェ近くの空きスペースに移築する。新年度当初予算案に移築保存費約1億5千万円を組む方針。国の地方創生拠点整備交付金を見込む。交付金が下りない場合は県費単独で予算化することも検討する。

 藤井教授は「画家が使用したアトリエとして明治期当初の姿をよくとどめている例はほかにない」と高く評価する。現存するアトリエ建築物は昭和初期が主で朝倉彫塑館(東京)や小林古径邸(同)など数少ない。

 メーンの収蔵品として日本最大の岡田コレクションを有す県立美術館・博物館の竹下正博学芸員は「この機を逃せば、建物が老朽化しており保存は難しい。最初で最後のチャンス」と移築の意義を説明する。

引用終わり

 

理解者の友人もこの映画を観てくれて、私に写真展をするべき、もっとあなたを世間に知らしめたいと言ってくれたので初めて映画レビュ―を投稿しました。

彼女も画家や漫画家になりたかったのでこの映画は切ないといいます。

誰もまだUPしていないので観るしかありませんでした。。

鮮明なカラー映像をご覧ください。当時発売されたばかりのフィルムを岡田三郎助が買い、弟子たちを撮影していました。動画です。
この笑顔!
白黒の16ミリは雨が降りでみにくいのに。
この女性画家たちは誰なのか?
この古いアトリエで沢山の16ミリが発見されました。
友人が親の家かたずける時、私は貴重な写真が有るかもしれないから簡単に捨てないでと頼みました。
はたして彼女の先祖は御殿医北里柴三郎と先祖の記念写真も出てきました。
私の母の写真でさえ愛知の女性史の本作る時、採用されました。
皇居の清掃奉仕の名目でなければ修学旅行も無理だった
捨てるの、流行っていますが中には大事な物が有るかも
二度と再生不能です。
この映画で一番興味惹かれたのは岡田の妻の八千代と画家の古沢岩美です。八千代はもうすでに家を出ていました、カッコいい。作家と画家の妻は両立できないと。
古沢岩美は「妖しいエロスを湛えた女性像を描く一方で、生涯、苛烈な戦争体験を忘れず、人間の 根源に迫る問題作を生み出してきた画家」 ..
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この画家知らなかった(恥)
妻の八千代は何と小山内薫の妹
兄よりも先に本を出し、のちには劇作家、青踏顧問!
画家の妻と作家は両立しないといいつつも始めはモデルとしても尽くしていたのですがある時家を出ます
でも岡田も籍も抜かず、パリに行った時は八千代と会っています。
岡田はいわさきちひろや愛知県一宮の三岸節子たちを指導しました。当時の女性は官立の美大に入れず家で花でも描いていればいい、日本画ならOKだが洋画油絵は駄目とか、一人で出歩くのはご法度、ヌードは勉強できないとか。縛りばかり。体が不自由だった三岸は蔵に入れられていて画家になるのは反対されていた。
それでも強い意思で一流の画家になりました。
それを助けた三郎助、このアトリエを知ることが出来て幸いです。