米良美一デビュー20周年とコンサート
豪華な美輪明宏氏らしい花籠ですね。
黄色がトレードマーク?
春らしくてルンルン
米良さんはお母さんを想って美輪さんのヨイトマケの唄も
歌っています。
病気の美一氏を音大に送るには大変な費用もかかったでしょう。
コンサートホールです。
歌手は米良さんだけなので1時間半ぐらいだろうと思ったら2時間半も
大萩浩司 ギター
藤江博子 ピアノ
以前の伏見でのコンサートも彼女の伴奏、、可愛いお弟子さんたちが
ドレスアップしていて可愛いかった
弦楽カルテット、女神降臨
第一ヴァイオリン 吉岡麻貴子
第二ヴァイオリン 戸上眞里
ヴィオラ 村田恵子
チェロ 三宅依子
豪華版でしょう。
子供たちのために残したい唄と言うだけあって
最後は少女合唱団が登場
前半はヘンデルや日本の歌でマイクなし。
私は最盛期の米良さんが世界のソプラノグルベローヴァや
マイクなしのオペラ歌手の歌声は清らかに染み入ります。
休憩をはさんで武満徹やレイ・ゲイラ、無言唄、手紙、花は咲く、
アンコールにヨイトマケの唄
二時間半も病み上がりで心配です、お疲れ様です。
イトマケ
私は米良さんの「水色のワルツ」が好きでどれだけ聴いたでしょうか。
1971年宮崎県西都市に生まれる。先天性骨形成不全症を患っていたため、幼いころから骨折を繰り返していた。1978年 - 1984年地元の西都市立三財小学校に通う。子供の頃から歌が好きであったが、身長が伸びず、両腕も伸ばせない症状のため、手を重ねて歌う姿に小学生時代には執拗ないじめを受けた。7歳からの数年間は宮崎市の宮崎県立赤江養護学校(現・赤江まつばら支援学校)に籍を置いて寄宿舎生活を送った。体調不良により床に臥す日々が続く時はカセットテープに録音されていた歌謡曲を聴いて過ごし、演歌、民謡に親しんだ。初めに聞いた曲がきっかけでアイドル歌手・松田聖子の大ファンになり、裏声でそのマネをしたことが米良のカウンターテナーの原点となった。
1984年 - 1987年中学時代も養護学校で学んだ。寄宿舎での生活は「寂しさを紛らわす為か、風呂場で詩吟を吟じた事があって、とても上手かった。」と当時の寮母長に回顧されているが、寄宿舎内に現存するオルガンを弾く事を勧められたことが、後の米良自身の歌の表現力の基礎になった。故郷を夢想しながら、これまで聞く事がなかったジャンルの歌に接することで刺激を受けて数年間を過ごす。1987年 - 1990年将来の進路について、音楽を人生の支えとすることを決意し、音楽大学進学を志す。父親は反対したが母親は賛成し、経済的余裕のない中で私立大学に通う資金援助を受けることとなった。また、養護学校の音楽教諭も無謀と言われたプログラムに熱心に取り組む。1990年努力の甲斐あって神奈川県の洗足学園音楽大学へ進学。在学中に、テノールから女声の音域を歌うカウンターテナー(男声アルト)に転向する。1994年大学を首席で卒業。5月、第8回古楽コンクール最高位を獲得。1995年奏楽堂日本歌曲コンクール3位入賞。
エディタ・グルベローヴァ&米良美一 イン・コンサート
(1999年7月23日)
本も読みました。
著書[編集]
- 日本のうた300、やすらぎの世界(1997年、講談社+α文庫)ISBN 4062562278
- 米良美一の美神讃歌 エッセイ and CD(1998年、講談社)ISBN 4062092956
- 天使の声〜生きながら生まれ変わる(2007年、大和書房)ISBN 9784479011972
- 母 米良美一・石牟礼道子(2011年藤原書店)
テレビドラマ[編集]
本当に辛い闘病さtれてきました、大人になってからはともかく、子供の時は骨が折れる病気で親と離れて暮らさなければならなかったのです。