riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

これはあなたのもの 福井謙一氏と共にノーベル化学賞受賞ホフマン氏

やはり知立、ちりゅう読めませんか。吉田栄作保坂知寿も読めないと。
 
名古屋出身のかとうかずこさんまで知多、じゃなく「ちりゅう」と!
 
おおあんまき、かきつばたで有名なのですが。
 
八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平”が、「からころも きつつなれにし つまし あれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠ん だように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地です。 庭園の面積約13,000 ...
 
パティオ池鯉鮒(知立市文化会館)の公演、今までも井上ひさしや歌舞伎など見に来た事もありますが今回はじめて電車で来ました、駅から100円のバスですぐです。
帰りもバスが待機してくれています。
 
ここもお祭りの山車我有名で会館にも山車や人形浄瑠璃我飾ってあります。

市名の由来[編集]

すでに、7世紀後半の木簡に「知利布」(ちりふ)とある。律令制以後の8世紀の木簡に「知立」とある。平安時代の『和名抄』に「智立」郷がみえ、江戸時代には「池鯉鮒」という東海道の宿場町として栄えた。知立神社を建てた伊知理生命(いちりゅう)にちなむという説もある。「池鯉鮒」の名は知立神社の池にコイやフナが多数いたことに由来する(大あんまきで有名な藤田屋のホームページなどに記載)。
 
さてお芝居は2幕物で長くアフタートークまで有りました。
もう一つのアンネの日記という事なのですが、台詞が膨大で聴き取れない事もあり、冒頭に人形劇も出てきますが眠くなり(汗)
 
これは原作読まないと…
 
屋根裏でユダヤ人親子をかくまってくれた一家にはわだかまりのある母親
 
そこにかくまってくれた人の娘がやってきて
これはあなたの物とわざわざ指輪を持ってきてくれたのですが
母親は受け取ろうとしません。
 
あまりに過酷な戦争等を体験した方は話すことも出来ませんね。
 
かくまう方も殺される危険が大きい。
 
 
 
 
 
1937年、現ウクライナユダヤポーランド人として生まれたロアルド・ホフマン氏 (1981年福井謙一氏と共にノーベル化学賞受賞)が、第二次世界大戦中のナチスによる 迫害の間、ウクライナ人家庭の屋根裏部屋にかくまわれていた自らの体験と、アメリカに 渡り成功を収めた現在が交錯する、ヒューマニズム溢れる作品。
 
平和に向かうための「記憶と忘却」、「善と悪のはざまでの選択」、「許し」など、人間が 「ある時代」の中で生きていくために大切なこと、それは時代を越えて許しあう人間同士の 思いやりにもつながる普遍性を持ち、今を生きる私たちに静かに語りかけてくれます。
 
STORY:
戦後アメリカに渡り、内科医として成功をおさめたエミール (吉田栄作)。
妻・テイマー(保坂知寿)と二人の子供、そして 81歳の母・フリーダ(八千草薫)と暮らしている。
フリーダは 戦時下のウクライナでの記憶を消すかのごとく、当時の事を 語らない。
その上、ナチスの迫害からかくまってくれていた ウクライナ人・オレスコ氏の事も、良くは言わない。
学校でホロコーストの事が課題となっている孫娘の質問攻め に、少しずつ話しはじめるフリーダ。
ナチスの行為、ナチスに 加担したウクライナ人への憎悪、そして自分と子供のためより、 同胞を救うため死んでいった夫の行為。
そんなある日、オレスコ氏の娘・アーラ(かとうかず子)が、 何かをフリーダに返したいと尋ねてくる。
思い出す過去。それ は忌まわしいことばかりでなく、「愛」に満ち溢れていたのだ…。
 
作:ロアルド・ホフマン
訳:川島慶子
演出:鵜山仁
 
出演:
ほか
 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
 
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ロアルド・ホフマン
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:化学反応過程の理論的研究
ロアルド・ホフマン(Roald Hoffmann、(1937年7月18日 - )は、アメリカ合衆国化学者(国籍はポーランド)。本名ロアルド・ザフラン(Roald Safran)。
量子化学化学反応におけるウッドワード・ホフマン則を明らかにし、1981年度のノーベル化学賞福井謙一とともに受賞した。

来歴[編集]

ポーランド(現在ウクライナ)のガリチア・ズウォチュフ(現ウクライナゾーロチウ)でユダヤ系の家庭(父ヒレル・ザフラン、母クララ・ローゼン)に生まれ、探険家ロアール・アムンセン(ロアルド・アムンゼン)にあやかって名づけられた。第二次世界大戦一家はまずソ連占領下に置かれ、1941年からはドイツ占領下に置かれて強制収容所に送られた。彼と母は父の努力で脱出し匿われたが、父は殺された。母はパウル・ホフマンと再婚した。
1946年一家ポーランドを脱出し、オーストリアドイツなどを経て1949年にアメリカへ移住した。コロンビア大学1958年に卒業、ハーヴァード大学大学院でウィリアム・リプスコムについて学び、1962年に博士号を取得した。
有機化合物・無機化合物の両方を研究対象とし、拡張ヒュッケル法(彼が1963年に提唱した)などの計算機化学的方法を発展させた。またこれを用いて、ロバート・バーンズ・ウッドワードとともに、有機化学反応の立体選択性を予測する法則であるウッドワード・ホフマン則を明らかにした。
科学に関する啓蒙書を書いているほか、詩人としても2巻の詩集を出している。また科学的発見をテーマとする劇 "O2 Oxygen" を書いている。
現在コーネル大学教授。2009年、ホフマンの主導により故郷ゾーロチウにホロコースト犠牲者の記念碑が建てられた。

受賞歴[編集]