riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

笑う101歳×2笹本恒子 むのたけじ

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ともに100歳を数える報道写真家とジャーナリストの男女の生き方に迫るドキュメンタリー。日本初の女性報道写真家で「今も現在進行形」と語る笹本恒子と、新聞記者として戦前戦後を生き抜き「今が人生のテッペン」と語る伝説のジャーナリスト、むのたけじ。2人はともに、日本特有の狭い価値観からは距離を置き、フリーランスの写真家、ジャーナリストとして独自の道を歩んできた。100歳を超えた現在も現役で活躍し、笑いながら終えようとする2人の自由な生き方を、むののペンと笹本の写真を2人の証言とともに構成し、激しく揺れ動いた時代の人間ドラマを描いていく。監督はNHKのディレクターとして「がん宣告」「シルクロード」「チベット死者の書」などのドキュメンタリー番組で数々の賞を受賞し、「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」を手がけた河邑厚徳。
 
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むのさんは戦後すぐ責任感じて朝日新聞を退職されたことで有名でした。
学校の教師の中にも忠君愛国を生徒に叩き込み、戦場や満州に送り込んだと退職された方はいますが、権力者で悔い改めた話は聞いたことがありません。ずるいですね。
 
権力者が戦争責任をきちんと取らなかった日本は今も最低です。
 
死期が近いと目も開かず口も小さくなっていく。
 
その姿を見せてくれました。
 
よく頑張られました。
 
1世紀以上も充実した人生を送られました。
 
お二人とも大尊敬します。
 
笹本さんはとても100歳超えてるとは思えないお洒落で素敵な女性、
 
初めて知ったのは徹子の部屋
 
年齢を公表しなかった、女性が報道写真家など皆信用しなかった、
男性の助手がカメラマンだと思う。
 
笹本 恒子(ささもと つねこ、1914年9月1日 - )は、日本写真家。一般に「女性報道写真家第一号」とされる[1]肖像写真も得意とする。
従来、1918年(9月1日)生まれとする文献があったが(例えば、下記「参考文献」欄記載の「日本写真家事典」)、2011年に刊行された「好奇心ガール、いま97歳」(下記「著書」を参照)により1914年生まれであることが明確にされた。
高等専門学校の家政科に通うも[2]、絵の勉強に専念したかったため中退[3]。その後、絵の研究所(父親には内緒で)および洋裁学校に通った[4]
戦前、女性報道写真家がいなかった頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵のアルバイト(社会面のカット[5])として活躍後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(笹本が子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた[6])にすすめられ[7]、(1939年に仮入社し[8]、母親の病気を理由とする10か月の休職ののち[9][10]、1940年(昭和15年)4月に)財団法人・写真協会(新聞記者・写真家の林謙一(1906年-)を中心に設立された内閣情報部による国策機関。写真週報の編集なども担当)に入り、女性報道写真家第1号となる。「いろいろな賞状の授与式や除幕式などの催事、海外使節団の動向、著名人や文化人の活動などを海外に紹介する」仕事を行った[11]。国内で起こった出来事を世界に配信したが、1941年のはじめに、兄からの厳しい反対および病気(脚気)のため同協会を退職する[12]
1941年9月に結婚。
終戦後は離婚、写真家として復帰し、国内で起こった話題・事件の女性たちを撮り、数多くのグラフ雑誌に掲載したが、活動の場であった写真グラフ誌の多くが廃刊されてしまい活動を休止した。その活動は、編年的には以下のとおり。
2014年、第43回ベストドレッサー賞・特別賞を受賞[13]。2016年に、米国のルーシー賞英語版(ライフタイム・アチーブメント部門賞)を受賞した[14]
 
忙しくなり離婚されたことは後悔されてるようです。
 
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 須坂市へ多数の貴重な写真をご寄贈いただきました笹本恒子氏が、
この度、写真界のアカデミー賞と呼ばれるルーシー賞を受賞される
こととなりました。
受賞を記念して、笹本恒子氏ミニギャラリー展を開催いたします。

◇ルーシー賞とは
 イラン出身で写真家でも活躍されるホセイン・ファルマニ氏が2003年に
設立した「ルーシー財団」が主催しており、笹本氏は「生涯にわたる業績部門」
での受賞が決まっております。
男性優位な社会の中で、初めての女性報道写真家としての努力と実績が高く評価されました。
 

笹本恒子さんの紹介

 笹本恒子(ささもとつねこ)さんは、大正3(1914)年に東京で生まれました。
 初めは油絵などの画家を目指していましたが、昭和15(1940)年に財団法人写真協会へ入社。第二次世界大戦で揺れ動く激動の時代を撮影し、日本初の女性報道写真家として活躍されました。
 戦後は、主にフリーの写真家として、女性に焦点をあてた写真などを撮影し続けました。社会進出が進んでいなかった厳しい時代の中でも、輝いている女性の姿をいきいきと写し出した写真(作品)が印象的です。
 100歳を超えた今でもその制作意欲は衰えることなく、ご活躍されています。
 

笹本さんと須坂市

 笹本さんはこれまでに、たびたび須坂市を訪れています。
そのご縁で、笹本さんが今までに撮影した134点の貴重な作品(写真)を今年3月に須坂市へ寄贈していただきました。
 また6月には、笹本さんが100歳の時に市内の畑で収穫したワインブドウを使ったワインや現金も寄贈していただきました。
 
 

笹本さんは、134点の貴重な作品(写真)を2016年3月に長野県須坂市に寄贈。須坂市では、折に触れて写真を展示。