続函館区公会堂、区民の手で!
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旧イギリス領事館から見えた威容
感動的でした。
12名死刑)朝鮮を植民地にした忘れられない年です。
間違ったことを政府が行い破局へ向かいました。
こういう建物は階段室も立派です。
次は八千代座のシャンデリアと同じ雰囲気です。
資金提供者 初代 相馬 哲平http://www.zaidan-hakodate.com/koukaido/images/history/somateppei.jpg 相馬哲平は天保四年(1833年)越後の国(新潟県)で生まれました。
28歳のとき、函館の附船渡世の店へ奉公しました。附船渡世とは、港に出入りする船の食料の補給や船員たちの食事や宿の世話などをする商いのことです。 哲平は身を粉にして働き、二年後にはその努力が実を結び、米穀店を開くことが出来ました。 明治二年(1869年)に箱館戦争が勃発した時、戦火の地に踏み止まり、全財産を注ぎ、米穀を買い集めました。 戦乱が終わると、これまで買い集めた米穀が総て高値で売れ巨額の富を得ました。 彼は、これらの資金を元手に金融業を始め、函館屈指の大富豪になりました。 晩年は公共慈善事業に全力を傾けました。大正十年、八十九歳の人生に終わりを告げましたが、郷土報恩の精神は二代目そして三代目の相馬哲平へと引き継がれ、具体的には昭和十九年の「財団法人相馬報恩会」の設立となりました。当時の評価額で三百万円の現金や株券が財団へ寄付され、これが財団の運営基金となり、各種公益事業への援助が現在に到るまで続けられています。 設計者 小西 朝次郎請負人 村木 甚三郎 嘉永元年(1848年)、新潟県中蒲原郡の生まれの大工でしたが、函館の高龍寺(函館の名刹)の建築工事に加わるため、親方と共に海を渡って来ました。
高龍寺の落成後も函館に残り、独立して大工を続けながら建物の意匠について勉強をし、棟梁としての力をつけていきました。 その後、幾つかの建築を手がけて財をなし、やがて建築請負人になりました。 公会堂をはじめ弥生小学校、セメント会社など、函館の大きな建築を次々と請負い大成しました。 身を粉にして働き資金提供 初代 相馬 哲平
当時の豪商初代相馬哲平に相談したところ、自分の住宅、店舗を焼失したにもかかわらず、5万円もの資金を提供してくれました。
函館、素晴らしいですね、
ほとんどこの方の資金提供で出来ました
眺めもいいですね。
この意匠、色使いもいいですね、完全洋風ではないですね。
昨日は季節の変わり目か、これから猛烈な暑さになるからか、体が重く起きていられなくなりました。
ダンスや演奏会が出来ますね
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