平和願う音色、広めたい 笙職人で雅楽の機関誌編集長・鈴木治夫さん
七夕の夕、冷泉家の諸技芸の上達を願う年中行事「乞巧奠(きっこうてん)」を見たら昨夜の夕刊にこんな記事が出ました。
中日(東京)新聞より
平和願う音色、広めたい 笙職人で雅楽の機関誌編集長・鈴木治夫さん
2017/7/8 夕刊
歌舞伎の 斧定九郎は下廻り役者の苦労を重ねてきた仲蔵がもともと野暮ったいどてらの山賊姿を月代(さかやき)の伸びた白塗りの着流しの浪人姿という扮装に変えてしまった。よく許されましたね。これで一気にスターになったから。文楽との違い面白いです。
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約1300年の歴史を持つ雅楽の全国組織「雅楽協議会」の機関誌「雅楽だより」が今月、創刊50号を発行した。編集長を務めるのは、全国でも今や数人しかいない笙(しょう)職人の鈴木治夫さん(71)=写真=だ。良質の竹にこだわる作品は、多くの奏者から「神秘的な音が出る」と信頼される。「雅楽は人々の平和を願う音楽。もっと広めたい」と鈴木さん。職人と編集長、二つの顔で奔走する。
東京都西東京市の鈴木さんの工房には、乾燥させた古い竹が所狭しと立て掛けられ、製作工程ごとに作業台がある。作業着姿の鈴木さんはいくつもの細かい工程を一人で黙々とこなす。「最初から笙職人を目指していたわけではなかった」と、鈴木さんは振り返る。
雅楽の龍笛(りゅうてき)(横笛)の愛好家だった父親の影響で、少年時代から龍笛に触れていた。高校卒業後、精密機器会社に入社。会社員の傍ら、プロの雅楽師から龍笛の手ほどきを受け、結婚式などで雅楽演奏のアルバイトもしていた。転機が訪れたのは二十四歳の時。雅楽関係者から「笙作りの後継者がいないから職人にならないか」と誘われた。「初めは悩みましたよ。これで生計が成り立つのかとね」
迷っていた背中を押したのが、かつて宮内庁楽部で笙の演奏をしていた多(おおの) 忠完(ただもと)(一九二九~八五年)。多から、古民家のすすにいぶされ乾燥した良質なすす竹の提供を受け「やってみよう」と決意した。職人としての歩みを始めた。
三十代の頃には、良い音色に不可欠な金属製の「リード」と呼ばれる部材を確保するため、香港の楽器店で古い銅鑼(どら)を二十五キロほど買い求め、トランクに詰めて持ち帰った。中国のある地方で作られた古い銅鑼の材質はリードに最適といい「一生分はあります」と笑う。しかし、竹については「二百年を超すすす竹は手に入りにくく、良い音の出る笙を作るのが難しい」と打ち明ける。
愛好家の減少で、雅楽の将来に危機感を抱いた鈴木さんは二〇〇五年、雅楽関係者と「雅楽協議会」を設立。機関誌では、雅楽器の素材不足の問題を取り上げ、環境保全の考え方と両立できる素材調達の方法なども提起している。
(小林泰介)