レトロな北海道旧庁舎、中央警察署、大通公園、イサムノグチ
北海道庁旧庁舎
ここまで来ると外国人観光客で賑わっていました。
裏側
裏側
大通公園にはブロンズやモニュメント、子供の遊び場があります。
子供たちが滑って遊んでいた
ブラックスライドマントラ
子供たちが芸術に親しみながら遊べるように滑り台として造られた
イサム・ノグチの作品
ノグチの強い希望で8丁目と9丁目の道路を遮断して
今の位置に設置された
刈谷のSA,温泉前の噴水でも子供たちが水遊びしています。
合衆国農務長官を辞して来日
北海道の歴史を語るとき、ホーレス・ケプロンの存在を欠くことはできません。蝦夷地からその名を変えた明治初期、すでに老いていたこのアメリカ人の奮闘によって、北海道は開拓されたのです。
http://www.myfood.jp/w_myfood/us_discovery/img/vol04_img02.jpg明治初期の北海道でアメリカ人といえば、多くの日本人はクラーク博士を思い出すでしょう。札幌農学校の初代教頭として「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉が有名ですね。しかし、そもそも札幌農学校を誕生させたのがケプロンであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。
http://www.myfood.jp/w_myfood/us_discovery/img/vol04_img02.jpg明治初期の北海道でアメリカ人といえば、多くの日本人はクラーク博士を思い出すでしょう。札幌農学校の初代教頭として「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉が有名ですね。しかし、そもそも札幌農学校を誕生させたのがケプロンであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。
南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。1871年(明治3 - 4年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年(明治8年)5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、1872年(明治4 - 5年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、1877年(明治10年)10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
黒田清輝記念館、無料
今回ロンドンには行けなかったど
函館札幌、廻ることが出来ました。
函館の建物、夜景
特に思いがけずイサム・ノグチの広大なヌエレ沼公園、
中島公園に行けたのは幸いです。
北海道であと残すのは旭山動物園
2トンもあっては車もかなわないけど繊細な動物だそうです。