松方コレクションに涙する、松方はゴッホのあの絵を買っていた
皆さま、ご無沙汰いたしました。
PCがすごく重くなり記事投稿が出来なくなっていました。
ヤフーの方は投稿できるのですがはてなブログは訪問、コメントがしずらく、PCが壊れると思いました。
何とかやって様子見ます。
松方が立派な人とは知ってましたがここまでとは。
国が文化を大事にしないのは今も同じですが
松方は国より先に美術館作ろうとしました。
貧乏な日本人画家ははまだパリ留学など出来ない時代に西洋の絵を見せたいと
軍部が台頭する時代に
有名なモネの睡蓮
モネは日本の浮世絵等が大好き、パリ郊外のモネの家には
陶磁器や浮世絵が多数飾られています。
撮影不可だったので残念ですが写真はありません。
ガーデン好きの私はパリから観光バスでゴッホとテロのお墓、あの教会、モネの家に行きました。
日程があわないので英語ツアーで
日本人は他にいませんでした。
ユゴーも日本文化が好き↑
松方が買った絵がこのモローの作品かもしれないのですが、
火事で焼けてぼろぼろなので断定できません。
出演 団時朗(玉三郎丈と舞台共演もされてます BS京都番組でもケイトフォックスに慕われる役)
国立西洋美術館館長…馬渕明子, 語り 中條誠子
最初のパリ・ローマ・エジプト・クロアチアなど以外は一人旅です。
オランジュリー美術館はチュイルリー公園の一角にあるので行きやすい美術館、ちょうど翌日からの花市?準備していました。これも観たかったのですが、ランスやナンシーに行ってしまったので。
オランジュリー美術館は改装前に一度行ったのですがこんなに並んだ記憶がありません。作品も増えていて見所一杯でした。日本人も多かったです。
日本にもモネの睡蓮はありますがここはさすが部屋中、ぐるーと睡蓮なので壮観です。
日本にもモネの睡蓮はありますがここはさすが部屋中、ぐるーと睡蓮なので壮観です。
作品リストの発見[編集]
2016年9月、松方コレクション953点分の作品リスト(絵画255点、版画554点、彫刻17点等)がロンドンで見つかったと国立西洋美術館が発表した。リストは、松方と取引のあったロンドンの画商が遺したもので、2010年、テート美術館に寄贈された文書に含まれていた。国立西洋美術館ではリストの発見により、コレクションの全容がほぼ明らかになるとしている
これを今回観た幻のコレクションで紹介してました
。...彼は殊に二人の画家を推奨して已まなかった。一人はギュスターブ・モローであり…
(私は子供の時県美でもモローを観て忘れられず、パリの彼の個人美術館訪問しました)
。パリ近郊ジヴェルニーのモネ邸を訪問した際の様子は、矢代の著書『芸術のパトロン』に描写されている。それによると、松方はモネの自邸に飾ってある自作の中から18点を選び、所望した。モネは「自宅に飾ってあるのは自分のお気に入りの作品だが」と言いつつ、「君はそんなに私の作品が好きなのか」と言って快く譲渡してくれたという。
…
しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなった。そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、売立てにより散逸してしまった(その一部が現在ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されている)。浮世絵のコレクション約8,000点は、昭和13年(1938年)に皇室へ献上され、昭和18年(1943年)帝室博物館(東京国立博物館)に移管された。
文化にこんな税金をかける政府に勇気ある発言
パリ郊外で慎重に保管されていたコレクション
松方に頼まれた方を世話した家政婦や可愛がられていた少女も
紹介されました。
松方は8時間労働を導入したり、
恐慌の責任取って辞任するなど、今の誰かとは大違いです
最後にお孫さんが寄贈する松方の肖像画見てウルウルしてきました。
録画していないので不十分ですが。
以下も引用です。
国立西洋美術館は1959(昭和34)年、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために設立されました。
「松方コレクション」を築いた松方幸次郎(1865‐1950)は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男です。旧制一高の前身である大学予備門からアメリカに留学して、エール大学で法律の博士号を取得し、ヨーロッパ遊学を経て帰国後、父親の秘書官などを務めましたが、神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年(明治29)年、同社の初代社長に就任しました。一時は神戸新聞、神戸瓦斯などの社長も兼ね、神戸商業会議所の会頭や衆議院議員にもなった人物です。
松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことです。大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916(大正5)年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めました。現在は東京国立博物館が所蔵する、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた浮世絵コレクション約8千点を含め、彼が手に入れた作品の総数は1万点におよぶと言われます。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではありませんでした。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていたのです。
松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていました。その美術館は「共楽美術館」と名づけられ、松方が敬愛する友人で美術品収集の助言者でもあったイギリスの画家、フランク・ブラングィン(1867-1956)が設計案を作り、東京の麻布に用地も確保されます。しかし、松方の夢だった「共楽美術館」が日の目を見ることはありませんでした。1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させたのです。メインバンクの十五銀行の休業によって川崎造船も経営危機に陥り、松方は社長の座を降りて自らの財産を会社の財務整理にあてます。日本に運ばれていた美術品は数度にわたる展覧会で売り立てられ、散逸してしまいました。
松方が収集した美術品のうち、かなりの数がヨーロッパに残されていましたが、ロンドンの倉庫にあった作品群は1939(昭和14)年の火災で失われ、現在ではその内容や数さえも確かではありません。一方、パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定しました。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、1959(昭和34)年、国立西洋美術館が誕生したのです。
(常設展示室解説パネルより)
川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥を崩壊へと追いやった。これを機に役員を務めていた全会社を辞任する。その後は衆議院議員を1936年(昭和11年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。