riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

玉三郎楊貴妃と瞼の母

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楊貴妃瞼の母勘九郎襲名公演で)は前に観たことがあるので我慢と思っていたら
友人が上京し、迷うなら行った方がいいと言うので
その日の朝(18日)ネットで1階三列目をゲット
 
天井桟敷か三階席専門でしたが。
 
友人と会えるかなと思ったら友人は娘さんの家で疲れ果てて
会えませんでした。
 
上のチラシの楊貴妃瞼の母のギャップをご覧ください(笑)
 
今回は中車(香川照之)の初主役というのも興味ありました。
 
あの年齢で歌舞伎界に飛び込んだ勇気
 
私はこの楊貴妃の曲も京劇風の玉三郎の優美・幽玄・繊細な
舞踊・衣装・髪飾り
まぶしすぎます~
女神降臨
 
夢の世界です。
 
本当は殺された人なのに。
前の記事に動画と歌詞載せました。
 
生者必滅 会者定離
 
 
 
方士の衣装も弥十郎さんの時とは違います。
 
舞台に近く、表情がとても良く見えて幸せでした。
もっと書きたいのに、力不足、時間不足です。又追記します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 市川中車が東京・歌舞伎座の「十二月大歌舞伎」第三部(午後六時半開演)で、股旅物の新歌舞伎「瞼(まぶた)の母(はは)」の主人公、番場の忠太郎を初めて演じる。幼少時に生き別れた母と対面する場面が大きな見せ場となる舞台。一歳の時に実父市川猿翁が家を出て、二十五歳で再会を果たした中車。「親に対する究極の思いを描いたこの舞台は、僕の実人生そのもの」と語り、作品への思い入れの強さを明かした。 
(安田信博)
 「瞼の母」は小説家で劇作家の長谷川伸(一八八四~一九六三年)が自身の境遇を重ね合わせて一九三〇年に発表した自伝的作品。翌年に東京・明治座で十三代守田勘弥の主演で初演されて以降、数々の映画や舞台がつくられ、長谷川の代表作となった。
 柳橋の料理茶屋の女将(おかみ)になっていた母おはま(坂東玉三郎)を捜し当てて対面し、積年の思いを吐露する忠太郎。おはまはわが子と確信しながらも、さまざまな事情、思慮から母心を隠して突き放し、二人は再び別れる運命をたどる。互いを思いやる母子の情愛が名ぜりふを交えて描かれる。
 大学を卒業して本名の香川照之で俳優の道に進んだ中車。父に一目会いたいとの思いが募り、公演先の楽屋を一人で訪ねたという。返ってきたのは「あなたは息子ではない。何者にも頼らず、自分自身で精進し、一人前の人間になりなさい」との言葉。その後、父は狐(きつね)の親子の情愛を描いた「義経千本桜 川連法眼館(かわつらほうげんやかた)」の舞台を泣きながらつとめたことを周囲から聞いた。
 父も猿之助時代に三回つとめた「瞼の母」。二〇一四年十月の歌舞伎座「演劇人祭 特別篇(へん)」では、朗読劇で坂東玉三郎と共演。その際、歌舞伎界入りを機に和解した父からも話を聞いたという。中車は「実人生の体験を表面にベタベタ出すのは歌舞伎の粋とは違う。玉三郎さんの教えも受けながら、皮膚の裏に隠れるように男気(おとこぎ)と寂しさを表現したい」と話す。
 今年一月の新橋演舞場で、代々の猿之助が主役をつとめ「猿翁十種」の一つとされる名作舞踊劇「黒塚」に初めて挑んだ。「四代目(猿之助)が共演の機会を与えてくれた。息子(市川団子)に肌感覚でつないでいく上でも大きな経験だった」と振り返る。
 歌舞伎で初舞台を踏んで五年。「十年間はひよっこ。中車という大きな名前が自分に沿っているかどうか、自身に課していく上でも、香川照之と二つの名前は意味があると思っている」
 第二部(午後三時開演)では、上方落語を題材にした「らくだ」で紙屑(かみくず)屋久六をつとめ、玉三郎とは第三部の舞踊劇「楊貴妃(ようきひ)」でも共演する。
 「十二月大歌舞伎」は二~二十六日。第一部(午前十一時開演)は「実盛(さねもり)物語」「土蜘(つちぐも)」、第二部は他に「蘭平物狂(らんぺいものぐるい)」。チケットホン松竹=(電)03・6745・0888。