<さよなら中日劇場>(5) 歌舞伎俳優・坂東玉三郎
2018/1/24 夕刊
初めて中日劇場に行ったのは、二十一歳のころ。懐かしい劇場です。そのころ、名古屋で歌舞伎をやっていたのは主に御園座で、初めて「中日でやらないか」と声をかけられて。それで「お染の七役」をやりましたね。ビルの中の劇場は初めてで、新鮮でした。
劇場って、人とのつながりだと思います。公演に行くたび、支配人(一九七二~八五年)の岩津良治さんと次は何をしようかって話しました。「新しい試みをしてくれ」と言われて、歌舞伎と新派を一緒に上演したんです。「マクベス」や「オセロ」もやりましたね。歌舞伎じゃない舞台で、いろんな出し物を経験させていただきました。
残念ながら、私はどこそこがなくなるからって寂しいと思うことはありません。なぜなら、仕方がないことだから。企業が出した結論だから、受け入れるしかないんです。
そういう結論に、私は残念だとか寂しいとか温情的な言葉は投げかけられません。そこで十分活躍できたことがうれしいことなので。精いっぱいやってきたし、やらせてもらった。何も残念なことはありません。
劇場は時代で移り変わっていくものだし(新しいビルに)四百人とか二百人とか、小さくても文化的な空間が残ればいいなというのが、私の夢です。その空間があるかないかで大きく違う。はっきり申し上げて、それをなくすなら、私は「あっ、そういう会社なんだ」って思います。
今、劇場を維持するのは経費が大変なんです。第一、企業の経営も大変な時代ですから。ソフトもないのに、空間そのものを置いておくことも大変なのよ。ただし、もし演劇が盛んになったときに「なくて残念だった」と嘆いても遅いわよって言いたい。だから「空間だけでも置いておけば」と思います。それが、私の中日劇場への思いです。
(聞き手・住彩子)
(聞き手・住彩子)