志村ふくみ展 命の色に導かれ
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凄い女性だとは聞いてはいましたが
詳しいことは知りませんでした。
2歳で養女にいったのに(昔はよくあることで本人には、内緒で)実子として育てられたのでしょう。
実母は別にいると知った時は衝撃受けたことでしょう。
その実母が民芸運動に参加した染色家青田五良に師事した体験を持つことから織物に興味を持ち、31歳で本格的に
染色の世界へ。
美しく優しい雰囲気の着物、
庶民の普段着だった紬が芸術に。
糸箪笥の中の絹の染め糸、ほれぼれするような色のマジック
特に惹かれるのが紫と赤です。
女は紺屋には入れなかった時代
源氏物語に着想を得た着物コレクション
植物染料にこだわり手機で
一本一本丁重に織り上げた
色彩豊かな着物。
中日新聞にのりました。
離婚を機に専業主婦から染織の道へ。愛する娘をあずけ、飛び込んだ工芸の世界の厳しさ
2歳で伯母のもとへ養女にいった志村さん。戦火が迫る時代、そんな彼女に大きな影響を与えたのは、5歳年上の兄でした。画家の卵だった兄は、終戦の頃結核に倒れます。命の限りをぶつけるように描いた燃えるような絵は、志村さんの心を強く打ちました。
志村さんは16歳で機織りに出合います。しかし結婚後は専業主婦へ。その後、夫の不倫が原因で離婚し、娘二人を抱えてシングルマザーとなりました。
働いて二人の娘を食べさせなければならない決断を迫られたとき、志村さんが選んだのは「染織」の世界でした。
決意をして訪ねた生母は、かつて染織を学んでいました。話をするうちに、若い頃出合った機織りへの情熱に火がつきます。愛する娘を養父母にあずけて生母から染織を学びましたが、工芸の世界は厳しく、「母親として無責任」と周囲からの風当たりは強いものでした。
母親は夫や子に人生を捧げるべきと考えられていた時代、30歳を超えて工芸を一から学ぶという志村さんの決断は孤独なものだったはずです。それでも貫き通す強さを支えたのは、幼い頃に別れた母の「染織をさせてやりたい」という想いでした。
一時は離れていても、母から娘へ、そして我が子へ連なる情が胸のうちに熱く燃えていたからこそ、志村さんは単身工芸の世界へ飛び込めたのではないでしょうか。 変わったきっかけ
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