名古屋市の戦前の動物園動物
pc修理します。時々固まります
これは何とかUP出来ました。
友人が東山動物園の講演会にも出席したいというので一緒に。
乳製品で凄い腹痛になりました、しばらく甘いもの、乳製品取らなかったら、もう消化できない
動物園は行くたびに発見があります。
友人も動物が可愛い、綺麗で楽しそうと、言ってくれました。
人出も凄くて植物園に移動しようとモノレールに乗ろうとしたら
45分待ち信じられない、ほとんど平日に行くのですが休日はアニマルトークやイベントが多いです。
昨日は戦前の東山動物園の歴史でした。
鶴舞にあった私設動物園から寄贈を受けて4ヵ月ぐらいで今のライオン舎や北極熊舎が出来たとは驚きです
しかも今も現役獣舎。
2枚目の写真の白ひげの方が今泉 七五郎氏
人物[編集]
名古屋市において、私設の動物園を設置し、その経営を行っていたが、1918年(大正7年)4月1日にこれを全て名古屋市に寄付した[1]。寄付された動物は鶴舞公園内に設置された名古屋市立鶴舞公園付属動物園に収容された[1]。白髭を蓄え、市のイベントの際にはラクダに乗り、普段からロバに乗って行動するなど、周囲には奇人として知られていたという[2]。
1937年に現在の東山公園に移転。
1980年市内在住の今泉七五郎氏が中区前津町、今の上前津付近に「浪越教育動植物苑」を開園。
1910年に大須に移転し28年間市民に親しまれた。
教育動植物苑という名称だった
1918年に動物が寄贈され鶴舞に動物園が開園、
鳥類に弱い東山。
戦前の史料に「サンマ」という動物が飼育されていたとありこれは
のちには露猫とありジャコウネコと判明
キリンは今はアニメキリンがほとんどですがその頃東山で飼育していたのは「マサイキリン」のよう。
日の下サーカスからゾウ2頭譲っ杖と依頼したら4頭一緒にと言われた。
サーカスの女性がゾウと別れたくないと(涙)
歴史は面白いですね。
三井軍医のさわやかなお顔
北王園長や軍医が守ったゾウ
北王氏は
1900年、京都の呉服商の家に生まれる。1923年に市立名古屋動物園に就職、1937年、同動物園が東山公園に移転した際に初代園長に就任した。周囲の反対を押し切って、日本初の無柵式の放飼場を設置した。また、開園当初はゾウが1頭しかいなかったために、木下サーカスのゾウ4頭を購入した。
1944年に入ると名古屋市も空襲を受け、治安維持を理由に大型獣に射殺命令が下るが、軍や警察を説得してマカニーとエルドの2頭のゾウと1頭のチンパンジーは生かしていた[1](ゾウは4頭いたが、キーコとアドンは寒さと栄養失調で戦中に死亡)。同様の理由で日本中のゾウが殺され、終戦後には日本にこの2頭のゾウしか生き残っていなかったため、とくに東京の子どもたちがゾウの寄贈を求めた。しかし北王は高齢の2頭の健康や絆の固さを理由にこれを拒む一方で、1949年には象列車を実現させた(象列車の経緯についてはその記事を参照のこと)。1963年秋に2頭のゾウが死ぬまで、毎晩必ずゾウに「ごくろうさん」と声をかけるなど、並々ならぬ愛情を注いでいた。
1951年には移動動物園や動物サーカス(ニコニコサーカス)を開始し、子どもたちに夢を与え続けるなどとくに名古屋市民の間では、上野動物園長の古賀忠道に匹敵するカリスマ性を誇った。1993年に93歳で死去。 引用終わり
北王園長や軍医が守ったゾウ
どんな厳しい時代にも両親のある真正の人はいるものです。
人殺しはしたくないと軍医になった三井氏がゾウを守った
肩に子猿を乗せたまま防空壕を掘っていたと。
ライオンを餌でおびき寄せてワイヤーで殺したという