riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

この星は、私の星じゃない 田中美津

同名の映画があいち国際女性映画祭で上映されましたが、26日から映画館で上映されます。

 

hitomi5235.blog.fc2.com





ウーマンリブは聞いてはいましたが、田中美津さんのことは全く知らなかったとはうかつなことでした。
メモなのでスルーしてください。

一緒に借りた「女たちのテロル」が素晴らしかった。

永田洋子はあたしだ」の発言
田中は一九七〇年六月に、「便所からの解放」(2)という長文ビラを、「ある日突然、しかも一気に書き上げた」。それは同じような想いをもっていた女性たちにたちまち流通してゆく。田中がその後書いたビラには、この文章からの転用が多い。この、いわば田中の第一作において、すでに「とり乱し」論が展開されている。それをまず見てみたい。
 田中は言う。男にとって、女とは、「母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か」のどちらかである(3)。男は、女を、この二面に抽象化し、分割する。そして、母性の面を結婚相手の女に当てはめ、便所の面を遊びの女に当てはめる。女は、男のこのような二分法に自分を合わせようとして、「やさしさと性欲を一体として持つ自らを裏切り抑圧してゆく」。女は、部分として生きることを強要される。しかし、逆説的ではあるが、「女を部分としてしか生かさない男は又、そうすることによって、自らも部分としてしか生きることができず自らの性を抑圧しているのだ」(4)。
 このように分断された性によって、全体的な性のふれあいが消滅し、人間は不完全燃焼状態に陥る。そして、「権威に依存した意識構造」が作り上げられる。こうやって、男も女も惨めな生を送らなければならない。
  そのことに気付いた女は、「性」の管理を手がかりにして女と男を支配しようとするシステムに対して、闘いを挑んでゆくのである。
 田中は言う。「われわれは、女の解放を、性の解放として提起する」と(5)。「性」の解放から出発する田中のリブ論がここではっきりと提唱される。
 さて、ここから田中独特の論理展開がはじまる。
  こういうふうに、支配権力のやり方に気づき、それに立ち向かってゆこうと決意した女が、しかしいったん好きな男ができて子どもを持ったりすると、どうして自分が批判していた家庭や家事などの日常性へと簡単に埋没してしまうのか。田中はこの点に執拗に注目する。そこには、「単に惰性に負けたとか、経済的に自立できなかったという理由だけでは片づかない何かがある」。それは、頭では女の闘いの論理を分かっていても、情念の世界では、好きな男が現われればその男のために尽くしたいとつい思ってしまうという、女の歴史性に刻印された「マゾヒズム的傾向」のせいなのだ。そしてやっかいなことに、女が主体的に男に尽くそうとして自らを抑圧するとき、そこには「陰湿な喜び」「嗜虐的な生きがい」が生じてしまう。そしてそのような陰湿な喜びを感じてしまう自分自身に対して、女は、「どうしようもない自分に対するいらだち」「やり場のない哀しみ」「言葉にならない怨念」を抱いてしまう。こういった、複雑な女の内面が、〈女のうらみ、つらみ〉という表現にあらわれている(6)。
 ここから目をそらしてはならない、と田中は言う。
わかります。

自分が汚れたと思うのも性暴力を受けたからなのですね。

田中さんは鍼灸師だから、女性はズボンの下に、足首まであるスパッツはきなさいとか、お尻の体操を勧める、

 

フラフープ、あの要領で朝晩お尻を左右に振って
50回ずつまわしていると血のめぐりがよくなる。

 

冷えはいったん体に入ると容易にはとれない

やがて万病をもたらす邪気となる。

中でも、腎臓、消化器、子宮、卵巣、胃なら何かとくよくよしがちになる

 



これは昔エアロビで教えてもらった体操と同じ⁉

鍼灸師は早死、治療して疲労困憊

アーユルヴェーダーの呼吸法を推薦