riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

イヨネスコ「犀」人形劇を観る

aichi-puppet.net

 

「犀(さい)」
■「犀(さい)」
愛知人形劇センター・ひまわりホール30周年記念制作~犀になれない僕こそが怪物なのか、人間なのか~ウジェーヌ・イヨネスコ『犀(さい)』を世界初、人形劇化。不条理演劇の旗手・イヨネスコの傑作に、若手演出家と俳優が挑戦。犀(さい)に変貌する人々を、段ボールの人形~オブジェクトで表出する。
動画あり
ネットでこの音楽を聴いたら観たくなってしまいました。
松本まで川本喜八郎の実演鑑賞に行き、地域の人形劇も、平常の舞台にも惹かれたのに、
その後、人形劇をなかなか観る機会ありませんでした。
土曜日の夜行ったら暗くて会場がわからず、人に聞いても「知らないな」どと答えてくれたのは同年配の人だけ、カップルも知らん顔でした。数人に全く無視されるのは初めて。
地下鉄の駅からすぐのはずが時間迫りタクシーに頼んでしまいました。
不条理劇など苦手なのですが、「犀」は豊橋で普通の演劇として上演もされています.
私は全く知らなかったていたらく。

アル中の頼りない青年だけが最後までサイにはならず考えさせられます。
ファシズム批判。ほとんど満席で頼もしいです。
流されない人。それも怪しいかもしれないが、一人でも頑張る人がいて、そこから社会は変わる。

段ボールがいくつも飛び交い、人形も段ボール。

www.hananoe.jp

Ionescu_a1

 ウージェーヌ・イヨネスコの『犀』は、1959年11月のドイツ初演後、1960年1月にフランスで上演され、センセーションを巻き起こした。フランス公演で演出と主演を務めたのはジャン=ルイ・バローである。1950年に『禿の女歌手』でデビューし、『授業』『椅子』で注目されていた不条理演劇の旗手イヨネスコは、この『犀』によって名声を確立した。

イヨネスコの言語観は悲観的である。重ねれば重ねるほど意味を失い、関節がはずれて、空疎になっていく言語。噛み合わず、ぶつけ合うだけで、やがて無意味な叫びや暴力へと傾斜していく会話。その悲劇性は、デビュー作『禿の女歌手』からはっきりと打ち出されている。イヨネスコは自作を「言語の悲劇」と呼んだが、それは、言語を扱う人の悲劇であると同時に、言語自身が言語に意味がないことに気付いてしまう悲劇でもある。言語自体を否定する言語が、劇中に散乱している。
 犀は政治の世界だけでなく、どこにでもいる。犀は「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉など知らない。狡猾なメディア戦略、執拗な情報操作と印象操作、偽善の裏にある支配欲と排他主義。あの手この手で私たちの視界を覆い尽くそうとする犀をはねのけるのは、返り討ちにされないレベルの高邁かつ強靭な批評精神を有する人か、孤独になるのも厭わないほど己の審美眼を磨いている人か、もしくは、梃子でも動かないような鋼鉄の無関心を保っている人のみである。むやみに的外れな攻撃をしても、相手の想定内にとどまるような批判を繰り返しても、「話題性」に収斂されるのがオチだ。団体を作って対抗しても、綻びが生じれば、その団体ごとファシズムにくみこまれる可能性もある。同志だと思っていた人間が変節し、裏切られた側が戦意を失って変節せざるを得なくなるという例は、世にいくらでもあるだろう。

 全員が犀になって騒いでいるのに、自分だけ無関心を貫くのは容易なことではない