riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

今は会えないインコさん

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鳥インフルで今は閉ざされてる、東山バードパーク

バードホールは、人と鳥を隔てる柵がない「ウォーク・イン方式」の展示を採用しています。

クジャクやショウジョウトキなどの鳥たちを間近で観察することができます。

バードホールの入り口付近には、檻ごしでアカコンゴウインコなどの色鮮やかなインコの仲間を見ることができます。

 

バードホールには、アカコンゴウインコ、ホオジロカンムリズル、クロエリセイタカキジ、アフリカヘラサギ、クジャク、ショウジョウなど数種類の鳥がいます。

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コンゴウインコ(金剛鸚哥、学名:Ara macao、英名:Scarlet Macaw)は大型のカラフルなインコである。別名アカコンゴウインコ

アメリカ大陸のメキシコ最東端の一部からペルーブラジルアマゾン川流域にいたる湿潤な熱帯常緑樹林の500m以下の低地(かつては少なくとも1,000m以下)に生息する。ペット売買のための捕獲と居住地の破壊により広範囲にわたって絶滅に追いやられつつある。かつては北はタマウリパス州南部にまで分布していた。現在でもコイバ島で見ることができる。ホンジュラスの国鳥でもある。

 

名古屋の動物園、「密輸動物」40匹飼育 経緯を示す:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

 東山動物園にしかいないアオキコンゴウインコ、を含めたインコ舎は外にあるので会えます。

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分類 オウム目インコ科
学名 Ara caninde
解説

生息域は狭く、ボリビアのサバンナや森林、マングローブ林に分布する。体色はルリコンゴウインコによく似るが、アオキコンゴウインコのほうが体は小さい。性質は温和で人間によく馴れる。

写真も東山動物園公式サイトから。

 

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この2羽の下にも1羽います、いつもけたたましく鳴いています。

 

密輸された子達を保護しています。

 

https://twitter.com/meow164/status/1356915308561264642?s=20

カンパニー逆転のスワン

妻子に捨てられたアラフォーサラリーマンに突然下された出向命令。左遷先は総務一筋の彼にとって縁もゆかりもないバレエ団。そこで課されたのは『白鳥の湖』の大規模公演を大入りにするという荒唐無稽なミッションだった。 【原作】伊吹有喜『カンパニー』 【脚本】梅田みか 【音楽】田渕夏海 【バレエ監修】熊川哲也・Kバレエカンパニー

 

第4回ミュージカル俳優でエールにも出た古川雄大がチャラい代役に!!

 

ホント、無理難題の上からの命令に翻弄され、妻子にも捨てられるサラリーマン、

 

社畜という言葉が出来たぐらいですから。

 

忠君愛国野押しつけ。

 

平和大事と抵抗する人には思う人に、マスコミ、政府も世間も非国民と大弾圧、

その結果が惨めな敗戦だったじゃないですか、今も、危ない。

 

 

 

男性はあんなに妻子を手放さないでしょうが、ドラマとしてはバレエシーンがあるので、楽しみです。

 

妻役の小西さんは前にBS番組でヨーロッパでバレエ修行していました。

 

日本の女性は収入さえあれば、ほとんど離婚すると、安冨歩

 

経済的自立が出来ないように仕組まれてますから。

 

まだ夫婦別姓にも横やり。

 

蓮舫氏は首相のコロナ対策を批判したら橋本などが攻撃

 

私はよくぞ言ってくれたと思います。

 

 

 

主演者インタビューダウン

 

 

 

 

軍国主義と英国人桜守

 

知られざる英国人桜守、「チェリー・イングラム」を追う

大英帝国の末期に活躍した園芸家、コリングウッドイングラム(1880~1981)。
彼は桜の魅力にとりつかれ、明治・大正時代の日本を3度訪れた。
イングラムが日本で収集した珍しい桜の数々は海を渡り、
ケント州ベネンドン村の彼の自宅の庭に植樹され、120品種を超す見事な「桜園」を創った。
今日、英国で多種多様な桜が見られるのは、イングラムのおかげである。
知られざる英国人「桜守」の足跡を追う。
阿部菜穂子

「太白」の原木
イングラムが日本に里帰りさせた「太白」の原木。 ザ・グレンジで阿部菜穂子氏撮影

コリングウッドイングラム略歴
1880年、ロンドン生まれ。鳥類研究家及び桜研究家。祖父はビクトリア女王時代に人気を集めた日曜紙「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。20世紀に日本の桜を広く英国に紹介した。英国園芸界では「チェリー・イングラム」として知られる。「観賞用の桜」(1947年)「野鳥を探して」(1966年)など5冊の本を著した。1981年没。

コリングウッド・イングラム
イングラム、25歳のとき。
南フランスの父親の別荘にて
イングラム家提供)

幼少期~桜との出会い

コリングウッドイングラムは、ビクトリア王朝下の1880年イングラム家の3男としてロンドンで生まれた。祖父ハーバート・イングラムは当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の創設者。父親ウィリアムは2代目経営者として新聞事業を発展させた。2代にわたる財産の構築により、一家は裕福だった。

そのころ、大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華 を極めていた。イングラム家は帝国の繁栄を背景に誕生した「新興富裕層」であった。コリングウッドは幼少時は身体が弱く、ケント州の北端、テムズ河口のウェストゲイト・オン・シー(以下ウェストゲイトと表記)の別荘で育った。彼は結局、学校教育は一切受けなかった。合格

コリングウッドは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけた。自然環境が絶好の教育の場となって、彼はナチュラリストに成長。親の財産で十分暮らしていけたため、成人後も生活のために働く必要はなく、始めは鳥の研究家、後に桜の研究家となる。

日本への初訪問は1902年(明治35年)、21歳のときだった。彼はこの旅で、すっかり日本びいきになる。19世紀半ば、長い鎖国を終えて姿を現した東洋の国、日本は、独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かで、西洋人は目を見張った。ヨーロッパでは「ジャポニズム(日本趣味)」が起きて、日本の浮世絵や骨董品などの熱心な収集家が多数、現れていた。そんな時代背景からイングラムも日本に興味をもった。日本訪問で彼が一番魅かれたのは「自然と人が抜群の芸術的センスで調和している」姿だった。

彼は1906年、フローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れる。

桜との出会いは、第一次大戦後の1919年。イングラムは妻と3人の子供をもつ一家の主となり、この年、ケント州南部の村、ベネンドンに新居「ザ・グレンジ」を購入して転居した。そのとき、新居の庭に植えられていた桜の大木2本が彼の目をとらえた。鳥の研究に愛想をつかしていたイングラムは、ヨーロッパではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し、研究しようと思い立った。

その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集。日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な「桜園」が誕生した。イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた「多様な桜」であった。合格

日本への桜行脚

英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年(大正15年)、日本へ「桜行脚」に行くことを決意した。

旅の計画を助けたのは、当時、日本で「鳥の公爵」と呼ばれていた鷹司信輔(たかつかさのぶすけ)公爵。公爵は鳥の研究のため ヨーロッパに遊学し、英国でイングラムと知り合った。鷹司氏は貴族院議員でもあり、豊かな人脈をもつ有力者だった。まもなく日本の桜愛好家の会「桜の会」の会長になる人物である。公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。

1926年3月末、長崎港に着いたイングラムは、すぐに東京へ向かう。このとき彼の目に飛び込んできたのは、前2回の訪日とは全く違う日本の姿だった。関東一円は1923年に起きた関東大震災で破壊され、その後の復興事業によって近代的なビルが林立していた。

「東洋の街並みは消滅し、恐ろしく巨大で醜いビルが立ち並んでいる。パンチ!日本は西洋の文明をあまりにも速く大量に、一息に飲み込もうとしているかに見える。この国は、猛烈な消化不良を起こしている」(1926年 4月2日のイングラムの日記より)

伝統文化は近代化の波の中で失われつつあった。園芸界にも商業主義が蔓延(まんえん)し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していた。彼はその現実を見て「日本の大切な桜が危ない!」と危機感を抱いた。そして、桜を英国へ持ち帰って保存しよう、と決意したのである。

京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に「珍しい桜」を探した。欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて「穂木(桜を増殖する際、台木となる樹に接木(つぎき)する若い枝)」を英国に送ってほしいと頼み込んだ。これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着した。

イングラムは日本滞在中に、東京で開かれた「桜の会」の例会に招かれて演説した。例会には、会長の鷹司公爵を始め、当時の日本を引っ張っていた有力財界人や官僚、有識者らが多数出席していた。彼らを前に、イングラムは重大な警告を発した。

「あなた方日本人はかつて、驚くべき数の桜の品種を開発したが、多くが絶滅の危機に瀕している。50年後にはこれらの桜は永久に失われてしまうでしょう」。

1926年当時の小金井街道
イングラム撮影の1926年当時の小金井街道イングラム家提供)

桜の権威となる

ケント州・ベネンドン村に生まれたイングラム邸の「桜園」は、1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしか「チェリー・イングラム」と呼ばれるようになった。

桜園にはイングラムが日本での桜行脚の際、京都で見つけた「妹背(いもせ)」や「手弱女(たおやめ)」、富士吉田で発見し、後にイングラムが「アサノ」と名付ける八重桜など、初めて英国にやってきた品種が数多く植えられていた。

イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出した。「オカメ」はカンヒザクラとマメザクラを交配させて生まれた品種。鮮やかで愛らしい桜である。チシマザクラカンヒザクラを交配させてできた桜は、艶やかな紅色の花をつける桜で、「クルサル」と名付けられた。

こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、「桜の競演」を繰り広げた。

舩津静作
イングラムが撮影した舩津静作
イングラム家提供)

イングラムは桜を一本一本観察して特徴をメモし、花や葉をスケッチ。それを基に、品種を確定した。彼は園芸雑誌や新聞に桜を紹介する無数の記事を書いた。また時折、桜園を公開して、一般人を「花見」に招待した。イングラムの桜はRHS(王立園芸協会)のフラワー・ショーに出品され、展示会を見に来た植木関係者の手に渡った。

こうして日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていった。また、イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなった。彼は名実ともに「桜の権威」 としての地位を確立したのである。

イングラムは戦前、日本で絶滅したと見られる品種の「太白(たいはく)」を里帰りさせた。これは彼の大きな功績の一つである。太白は大輪一重の品種で、純白の花は直径が5、6センチもある。優雅でひそやかな美しさをもち、イングラムのお気に入りの桜だった。イングラムは桜行脚の際、東京の桜守、舩津静作氏と出会い、太白の絶滅を知らされた。彼は太白が自分の庭園にあることを舩津氏に知らせ、里帰りさせることを約束したのである。

帰英後の1927年、イングラムは太白の穂木を採取し、京都の桜守、第14代佐野藤右衛門氏に船で送ったが、穂木は枯れてしまい、失敗。5年間の試行錯誤を経て、穂木をジャガイモに突き刺してシベリア鉄道経由で送ったところ、成功した。これを佐野氏の息子、第15代佐野藤右衛門氏が接木して、太白は祖国に甦った。

第二次大戦と戦後の英日の桜

ヨーロッパでは1930年代にきな臭さが増し、39年に第二次大戦が勃発。アドルフ・ヒトラーナチス・ドイツは大陸欧州諸国を次々に併合した後、英国侵攻を狙っていた。しかし、英国人の頑強な抵抗に遭う。

1940年夏、イングラム邸の桜園の上空では、ドイツ軍と英国軍が激しい航空戦(バトル・オブ・ブリテン)を繰り広げ、被弾した戦闘機がベネンドン村にも墜落。1機はザ・グレンジの正門に激突し、桜園は間一髪で大きな被害を逃れた。

また、戦争後期になると、ドイツ軍は英国に向けてミサイル弾「V1」「V2」を発射。ベネンドン村にも落下して村人5人が犠牲になったが、桜園は生き延びた。

イングラムは戦争中、銃後を守る「ホーム・ガード(国防市民軍)」のベネンドン部隊指揮官に任命され、村のパトロールなどに当たった。しかし、この間もザ・グレンジの屋根裏部屋で桜に関するメモを書きためていった。

1926年当時の小金井街道
左)1940年代半ばごろのザ・グレンジの桜園(イングラム家提供)
右)イングラムの著書「鑑賞用の桜」

一方、祖国日本では、別の桜のドラマが進行していた。戦前、イングラムが懸念したように、伝統の桜はどんどん少なくなり、代わって幕末に開発された新しい品種の「染井吉野(そめいよしの)」が国中に広まった。成長が早く経済的で、見栄えの良い染井吉野は、早急な近代化と富国強兵路線が進められる中で、「新生ニッポン」のシンボルとして注目され、各地に植樹された。

染井吉野が大量植樹されたことで、日本の桜の風景は決定的に変わった。染井吉野はクローンであるため、どの樹も同じDNA(デオキシリボ核酸)をもつ。大量植樹の結果、「花がいっせいに咲いて、いっせいに散る」光景が誕生した。これがやがて軍国主義に利用され、パンチ!桜の散り際に焦点を当てる風潮が生まれ、国民は「桜のように」潔く国のために死ぬことを奨励された。!!しかし、敗戦によって桜は滅び、国も破滅する。日本で滅びた桜はイングラム邸で生き延びた。これは驚異的なことであった。

戦後、イングラムは自らの桜研究の集大成である著書「観賞用の桜」を出版した。この本は英国中に「桜ブーム」を巻き起こした。各地で様々な品種の桜並木が作られ、「多様な桜」の風景が広がった。

一方、日本では戦後の復興事業が進むとともに再び染井吉野が大量植樹され、国土を席巻。全国に植樹された桜の約8割までが染井吉野で占められるまでになった。

現代の英日の桜

イングラムは1981年5月、遅咲きの桜の花びらが舞う中、ザ・グレンジで100年6カ月の人生を終えた。大往生であった。

英国ではイングラム亡き後も、彼の残した桜の伝統が生き続けた。今日、桜は英国中の住宅街に普及し、著名な庭園には例外なく多彩な桜が植樹されている。 桜は王室にも広まり、ウィンザー城の庭園や故エリザベス皇太后の住居の庭にも植樹された。さらに、桜の保存と育成を担う次世代の英国人たちが現れ、強固なネットワークを作っている。

戦後の英国で桜が人気を集めた一方で、大戦中に起きたある出来事が、長い間イングラム家に影を落としていた。イングラムの義理の娘、ダフニーが、従軍看護師として香港で勤務していた1940年、旧日本軍の捕虜となっていたのである。彼女は3年8カ月という長い時間を捕虜収容所で過ごし、過酷な体験をした。

ダフニーと夫のアレスター(イングラムの3男)一家は戦後、イングラム夫妻の近くに住み、夫妻と緊密な関係を築いたが、日本の桜を愛する父親と嫁の間には意識のずれがあった。

ダフニーだけではない。大勢の旧捕虜たちが、戦後も日本と日本人への憎しみを抱き続けた。捕虜問題は「桜イデオロギー」の下で戦われた太平洋戦争の落とし子であり、捕虜たちはその犠牲者であった。

捕虜問題!!が日英間で大きな政治問題となった1990年代、北海道の桜守、浅利政俊氏の創った新しい「松前桜」が和解に向けてひと役買うことになった。浅利氏は北海道で長年、地道に捕虜の和解問題に取り組み、市民運動を続けてきた経験があり、日本の過去への償いの意を込めて1993年、ウィンザー城の庭園に58種類の松前桜を贈った。「日本軍の行為の犠牲になった方々とその家族に哀悼の意を表したい。新しい日英間の友好関係構築のためにこの桜を大切に育ててほしい」との手紙を添えて。!!

これらの桜は、立派に成長して現在もウィンザー城庭園の一角に保存されている一方、増殖されて英国中に広まっていった。更に運命の巡り合わせで、子孫の苗木40本が2000年、旧イングラム邸に植樹された。あたかも、浅利氏の真摯な思いが松前桜をダフニーのつらい体験が刻まれたザ・グレンジへと向かわせたかのように。こうして「償いの桜」はザ・グレンジで成長を続け、イングラム家の「負の歴史」にも和解がもたらされていく。

チェリー・イングラム
晩年のイングラムイングラム家提供)

チェリー・イングラム

「チェリー・イングラム
日本の桜を救ったイギリス人」(岩波書店

大英帝国末期に活躍した園芸家、コリングウッドイングラムの生涯を追うノン・フィクション。日本の桜の魅力にとりつかれ、明治・大正期の日本に3度足を運び桜をイギリスに紹介したイングラムの足跡をたどる。海を渡った桜のドラマを通じて日英の近代史が浮かび上がる。イングラムの救った桜がいかに英国で生き延びたかのほか、1000年以上に及ぶ日本人と桜の歴史や近代日本で桜が軍国イデオロギーに利用された経緯なども分かりやすく明らかにする。

希望者は特価(£15+郵送料など£2)にて阿部氏 contact@naokoabe.com から購入可。
Amazon.co.jp はこちらから

阿部菜穂子阿部菜穂子氏 略歴ジャーナリスト。毎日新聞記者を経て、2001年8月からロンドン在住。著書に『異文化で子どもが育つとき――イギリスの今・日本の未来』(草土文化)、『イギリス「教育改革」の教訓――「教育の市場化」は子どものためにならない』(岩波ブックレット)など。近著「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」(岩波書店)が第64 回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。ホームページ: www.naokoabe.com

 

 

日本人としては桜が軍国主義に利用されたこと。

 

戦地に食料も医薬品もなく追いやられ

 

英国人看護師は暴行を受け無報酬で労働させられた。英国人兵士には少しは支払われたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

使い放題官房機密費とアニキン4、トラ赤ちゃんなど

 最後に紹介した動画のコメントが、アメブロではup出来ません。

アメブロは監視しています。

普段はアメブロでupしています。

伊豆アニキン4,ホワイトタイガー赤ちゃん、チーター、ライオン、 | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ (ameblo.jp)

菅が9000万円使って総裁選か。

 

菅首相、官房機密費「総裁選に使ってない」 共産・小池氏への答弁で否定 (msn.com)

 

 

カムイオー1 日前

年間十数億円の血税を、政府が自由に使えるって異常ですよ❗️支出に領収書不要。会計検査院による監査も免除。過去には私的流用、一部有名言論人へのバラマキがバレた事も。1000万円を受けとらなかったのは田原総一郎だけだったとか😅 * 野中広務は、自民党の中ではいちばん尊敬出来る政治家だったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ライオンやトラを見ながらランチ出来ます、今はホワイトタイガーの赤ちゃんも出てるようですラブ

 

 

 

 

 

 

 

11月のアニキン

 

 

 

 

 

ガーン

 

 

 

 

「ケイジ君大人しい、いつもと違う」と、お子さん達、昨日の東山のケイジ君は寂しそうでした。当たり前ですが。

 

 

小渕さんは月1000万無税で使えた!供与の他に!野中さんは証言していた。

 

あべ、スガのまわりに居る奴はもらってるね。

 
 
Fukuro Ike
独裁国家でもあるまいし、新政権になったら是非、官房機密費を精査して公表を期待したい。これでいい正月ができると言った方も気になっているので。野中さんは気骨のある政治家だったね。 主権者たる国民には10万円も出し渋り、生活保護があると宣い、己は公費を自らのために使い放題。
 
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藤ノ華かかし
消費税アップも?…国民にしてみれば地獄だね❗ アップしないでやって見たら❗ 一家の主婦は、無いなりに やってます‼️
 
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転載第二弾!日本政府の調査を望んでいます

 

 

 

 

 

 

 

追悼キム・ギドク監督

 

世界の映画祭を制覇、進化し続けるキム・ギドク監督が愛してやまない歌アリラン。韓国第二の国歌とも言われる“究極のブルース”の魅力に迫り、彼の揺るぎない精神を追う。

韓国では、大統領から幼児まで誰もが歌えるという、“韓国第二の国歌”アリラン。2000年のシドニーオリンピックで南北統一選手団が入場する際に行進曲として流れ、サッカーワールドカップの韓国代表チームの応援歌にも使われている。
韓国を代表する映画監督、キム・ギドクもこの歌に魅了されたひとりだ。自らの生きざまを自問自答するという斬新な手法で描いた映画『アリラン』(’11)では、2011年のカンヌ映画祭で「ある視点部門グランプリ」を受賞している。監督を魅了してやまないアリランの持つ歌の力と、その源流を探っていく

 

17歳から工場で働き始め、20歳で海兵隊に志願、5年間を軍隊で過ごす。“軍人体質”と周囲から言われるほど軍隊生活に適応していた。1990年、絵画の勉強のため、フランスへ渡る[3]パリで観た「羊たちの沈黙」「ポンヌフの恋人」に感銘を受け、映像表現を志す[3]。帰国後、脚本執筆に没頭し、1996年、低予算映画『鰐〜ワニ〜』で監督デビューする。

2000年の『魚と寝る女』、2001年の『受取人不明』がヴェネツィア国際映画祭に正式出品され、ヨーロッパを中心に海外での評価が高まっていく。2002年の『悪い男』はソウルだけで30万人を動員する異例のヒットを記録したほか、ベルリン国際映画祭に正式出品された。同年、『悪い男』に触発されたチャン・ドンゴンが自ら出演を希望した『コースト・ガード』を撮影。2003年の『春夏秋冬そして春』は、韓国映画界最高の栄誉大鐘賞青龍賞の最優秀作品賞を受賞。全米では韓国映画史上最大のヒット作となった。

2004年には『サマリア』でベルリン映画祭銀熊賞(監督賞)[3]、『うつせみ』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)[3]2011年アリラン』でカンヌ国際映画祭ある視点」賞、2012年嘆きのピエタ』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した[3]

 

 

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キム監督の映画で初めて観たのは「春夏秋冬そして春」テレビで観たのですが何とも言えない映像の美しさ、独特の内容にファンとなりました。

 

韓国の米軍基地を描いた「受取人不明」「サマリア」「うつせみ」「悪い男」「絶対の愛」「弓」など観てきましたがオダギリジョーを迎えての「悲夢」のあまりの自傷行為の場面が辛くて今回の「嘆きのピエタ」も未見です。

 

オダギリと言えば昨晩の冒頭で新島と木戸の会見に登場したのがうちで長く愛用している食器だったので友人にもメールしてしまいました。

前回の尚之助の言葉も泣かせました!

 

キム監督は世界中から資金も出すからとオファーがあるのに断って、自分で世界各国出自分の手で映画を作るのが夢と。

 

「悲夢」で女優さんが撮影中事故に遭いそれで悩んで映画が取れ無くなって数年、

復活され来日。

 

ひきこもっていた山小屋から車で市場に行き、旬の野菜や果物を買い

 

「旬のものが食べられるのが幸せ。変わることのない自然が命を守ってくれてきた。自然界が変化し、サイクルが狂うとさまざまなものが失われてしまう。

 

すべての争いは欲から生まれる。みんな加害者で被害者。欲を抑えるにはどうしたら良いのか考えている。欲を消してくれるのがアリラン

 

キム監督の作品は国内より海外で評価が高いようです。