riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">封印された原爆報告書 見ました</span>









































































封印された原爆報告書 見ました


181冊の報告書が封印されていた。
1300人の調査団が広島に入っていた。
アメリカ公文書館、GHQ文書。
1万ページに及ぶ。
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今回初めて入手できた。
生々しい被害の実態。
どこでどう亡くなったか、教室に丸印。
200人を超す解剖記録もあった。

日本人の手で作られ、アメリカにわたされたが、これは日本のカードとなった。

宇品に収容された被爆者6000人がむしろのような布団に寝かされていた。
早くも8日に陸軍が調査を始めた。
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原子爆弾ニ依ル廣島戦災医学的調査報告 
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どのようになくなっていくかの記録。
治療でなく、検査ばかりだった。
沖田さんの記録。
体温は40度を超えていた。
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白血球1300。通常の4分の1。
彼は一命を取り留め、回復の過程が調査の対象に。
髪の毛が少しずづはえはじめた。

終戦とともに、一気に拡大、1300人を超える医師、科学者が集まった。
2年で、181冊、1万ページの報告書に。

すべてを英語に翻訳し、アメリカにわたしていた。


オーターソン大佐へ
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マッカーサーの主治医、原爆調査団の代表。
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フィリップロジ氏92才 もっとも若い医師だった。
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日本側から提出したいという申し出があった。
オータソンは喜んでいた。

重要なデータを集めてくれていたのだ。
被爆国にしかできない調査でした。

陸軍省医務局の幹部 小出策郎軍医中佐
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なぜ小出はアメリカにわたしたのか。
内情を知る人、軍医少佐 三木輝雄94才。
父が医務局長だった。大本営に所属していた。
いずれ要求があるだろう。早く持っていった方が心証が良いだろうと、要求がないうちに持っていった。
731のこともあるでしょうね。
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(バーンズ国務長官の顔が写っていたので、ここに紹介する。彼が市民への無警告原爆投下を誘導した人だ)。

attached(12) 左端に切れている
attached(13) 右から3番目(前列右から2番目)


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15日、小出に出された極秘命令。
特殊研究は証拠を隠滅せよ。
三木は、動揺する幹部を間近に見ていた。

原爆のことはかなり有力なカードだったんでしょうね。
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投下後2ヶ月、米国調査団が入る。
橋渡しは小出に代わって、東京帝大の都築正男教授。

報告書番号14
都築教授と陸軍の調査
どれだけの範囲の人を殺せるかのデータ
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1万7千人の子供たち。どこで何人死んだか、70カ所で。
爆心地から1.3k  132人中50人
0.8kでは 560人全員死亡。
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学徒動員にかり出されていた。
まとまって作業していた。

第一国民学校 佐々木妙子さん77才 1年生だった。
建物疎開の作業に動員されていた。

屋外作業の175人が被爆。108人死亡。67人重傷。佐々木さんを含む。

ウォーターソン大佐が強い関心。

すべてワシントンの 研究所へ。

原爆の医学的効果という6冊の論文
機密解除が遅れた。

グラフ
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死亡率曲線

ソビエトの主要都市攻撃に何発必要かの算出
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ジェームズヤマザキ教授
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極めて重要な軍事情報でした。日本人の協力の賜物です。

佐々木 ばかにしとるねえ言いたいです。手を合わせるだけです。何も出来ません。

参加した医師。山村秀夫 90才 東京帝大の調査団の一員だった。2年目の医師だった。

すべてアメリカのためという意識だった。
日本で公表することもだめだし、もちよって相談することもできませんから。
全部むこうに出す。

報告書番号23
山村の論文
被爆者にアドレナリンを注射し、反応を調べた。
12人のうち6人はわずかな反応。

亡くなった被爆者は、解剖された。

200人を超す解剖結果は、14冊の報告書に。
1冊に子どもの解剖記録。報告書番号87。
長崎の小野田まさえ 11才。
まさえおばさんが4歳の時の写真。
無くなる何時間か前に、「兄ちゃん、家に連れてって」。救護所の医師が声をかけてきた。
将来のために、妹さんを解剖に預けていただけないかと父に。
被爆者のために役立ててほしいと託した。
しかし、その後知らされることはなかった。
標本はアメリカに渡っていた。
昭和48年、日本に返還され、広島と長崎の大学に保管されている。
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小野田さんの標本は長崎大学医学部にあった。5枚のプレパラート標本。肝臓、腎臓など。
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医師の斎藤紀(おさむ)さん。
報告書から新たな発見を探した。ある医学生の手記を発見。
報告書番号51 
モンデンヨシトキ氏 ある被爆の実態が彼の手記に書かれていた。
門田可宗(よしとき) 
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山口医専の学生。19才

4日後に広島に入った。
彼にも原爆特有の症状。入市被爆

8月15日、39度5分
歯茎とのどの痛み。
19日、体中に出血斑。

私も原爆の被害者なのか。不安のあまり、その日は眠れなかった。

私の症状は被爆者の症状とまったく同じではないか。
何と言うことだ。私も原爆の被害者になってしまった。

斎藤医師は、門田の報告書がありながら、国が入市被爆を否定したことに憤り。

斎藤泰子さん 末期癌なのに法廷で入市被爆を訴えていた。
亡くなったあと勝訴判決。

門田可宗さん 倉敷で存命。
斎藤医師が訪問。
心臓、肝臓を患っていた。

日本語で書いた。
訳されたことは知らなかった。

都築教授に日記を書くよう勧められ、山口に戻ってからかいたという。
わざわざ山口医専までお出でになった。
オーターソン軍医が手記を求めているとも分かった。

僕が残さなければ誰が残すんだ。
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以上、隠されていたものがやっと表に出てきた。これらを発掘した取材班に敬意を払いたい。見るのはつらかったが、ここに報告することを目的としたので何とか作業を続けることが出来た。


転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理