riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">白沙村荘橋本関雪記念館と朝ドラ「カーネーション」と</span>





朝ドラカーネーション主人公がだんじりに乗れないとか、学校の修身の時間や父に女だからと押さえつけられ不信に思う場面に思わず反応してしまいます。

その父はその幼い娘に集金に行かせたり、妻に実家に無心させたり、情けないのですが(´艸`)

今では逆差別だと思われる男性もいらしゃるでしょうね。

私でさえ、子供の時に料理も裁縫もプロの偉い人は男性しかいないなんて言われたものです。

女性は教育の機会が奪われていましたから。

作曲も文学でも男名前でないと発表出来ない時代がありました。

ピーターラビットで有名なポターもきのこの研究が無視されました。





橋本関雪記念館はずっと気になっていましたが紅葉の銀閣寺に行っても入る時間がなく今回やっとかないました。



白沙村荘 橋本関雪記念館(はくさそんそう はしもとかんせつきねんかん)


    






 白沙村荘(はくさそんそう)は、バス停「銀閣寺前」から東へ、また銀閣寺からバス停に向かう途中にある。日本画家・橋本関雪が大正5年に南禅寺から引っ越しアトリエ(制作現場)として、また住居として築造された建物。1万平米の広さで、庭園と建物の一部が開放されている。記念館では関雪の作品やコレクションが展示されている。白沙村荘の命名は、近くを流れる白川の砂(白川砂)に由来する。

 庭園は東山・如意ヶ嶽を借景とした池泉回遊式になっていて、自由に散策できる。散策路のいたるところに、石灯籠など関雪が収集した石造美術品が配置されているので、植栽の美しさと併せて楽しめる。庭園へ入り最初の石造物は数メートルの高さの「国東塔(くにさきとう)」。更に散策路を進むと、清流に架かる石橋を渡る。この清流は、当初は近くを流れる疏水から取水されていたらしいが、現在は地下水という。庭園の中心となる「芙蓉池」畔をまわるが、池越えにアトリエとして使っていた「存古楼(ぞんころう)」が望める。南池の東側に、茶室の問魚亭(もんぎょてい)、対峙して倚翠亭(いすいてい)と憩寂庵(けいじゃくあん)が続く。これら茶室は、関雪が夫人・よねの為に建てたもの。存古楼の西側には持仏堂があり、鎌倉時代に造られた地蔵尊立像(重文)が安置されている。この持仏堂の前に、珍しい中国産の白松がある。これらの庭園は、一度に造営されたものでなく、約30年間に6回から7回にわたり敷地を買い増し、徐々に庭園が作られていたという。当初、この辺りは人家も無く、見渡す限り水田地帯。庭園造営にあたって堂路面から1メートル以上も低い土地であったため、土盛りをしたという。30年間に亘って関雪が心血が注ぎ作庭した庭園は国指定名勝となっている。






東山・如意ヶ嶽を借景とした池泉回遊式庭園



アトリエとして使っていた立派な「存古楼(ぞんころう)」では案内の方から説明を受けました。
散策路のいたるところに、多すぎるほどの石造美術品が配置されていますがその方によると寄贈されたものも多いそうです。




橋本関雪美しい白狐の絵があります。

明治16年(1883)~昭和20年(1945)
神戸市に生まれる。幼い時から漢学を学ぶとともに四条派の手ほどきを受ける。京都では竹内栖鳳が主宰する竹杖会に参加し官展で活躍するが、のちに意見があわず竹杖会を脱会する。たびたび中国を訪れ、中国の古典文学や風物をテーマにした作品を発表。四条派、大和絵狩野派、南画などすべてを吸収した関雪独自の画境を築き上げ、とくに晩年には動物画の名作を多く世に残している。





今では観光客でにぎやかですが当時はこの辺りは人家も無く、見渡す限り水田地帯だったそうです。














重文の地蔵尊立像、開扉されていました。新聞に載ったお顔より穏やかです。

この持仏堂の前の珍しい中国産の白松の写真は又の機会に。









追記