<span itemprop="headline">続柳兼子</span>
軍歌を歌わなかった兼子は戦争中禁断の花作りをして兵隊たちを喜ばせた。
花なんか作ってはいけない、野菜など作らなければならない時代でした。
花なんか作ってはいけない、野菜など作らなければならない時代でした。
「戦争中一番良いことしたのは花作り、人を喜ばせたから。」と兼子。
日本のバラの父鈴木省三氏も戦争中のバラ作りには苦労されました。
先日、図書館で小池静子著「柳宗悦を支えて 声楽と民芸の母 柳兼子の生涯」 を見つけました。作者は兼子のお弟子さん。
このお顔でもわかる通り、気宇壮大な方です。これは小池静子の言葉
宝塚出身の大歌手深緑夏代 は会ったことがないのに絶賛
オペラは男女が恋の歌をデュエットするから実害があると音楽学校では禁止 の時代に声楽を学び、ベルリンやソウルで喝采を得て気難しい宗悦を支えた方です。
ソウルでは音楽会の収入をすべて寄付、朝鮮の人が誇りを持てるように美術館を建てたのです!
ドイツでは契約してくれと懇願されたのに、日本から帰れといわれて帰国してしまった。
この時代に三人の男の子を日本に残して留学していたのですから仕方ないかも知れませんが残念至極です。
85歳まで公式のリサイタルを続け、その後も数年間は私的な集まりで歌い続けていた。また92歳で亡くなる死の2ヶ月前まで後進の指導にあたった偉大な人物です。
リスト からピアノを習ったペッツオルドから声楽を師事した兼子。
「鼻に響かせろ」とペッツオルド。日本人は鼻が小さいからなかなか出来ない
のに「なぜなぜ」といわれたそうです。
次から次に歴史上の重要人物が現れます。
三浦環は派手で有名だが日本人歌手として通用するのは三浦ではなく兼子だった!
カルメンのハバネラを日本人で初めて歌った兼子
まだ手探りで西洋音楽を学んでいた時代です。
帝劇オペラの相手役が七代目幸四郎、役者なのでうまくあわせてくれたそうです。テナーがいないのでてテナーの役を演じた兼子。
宗悦は兼子に200通ものラブレターを送ったのに、結婚後は経済的に兼子におんぶ、しかも暴君、時には暴力、兼子も強いから黙ってはいない。
宗悦の女性関係も兼子を悩ませた。
私も白樺派が好きで武者小路、志賀を若いときに読みました。
メモ程度です。、
夫宗悦の民芸への驚くべき執念に対して、兼子は心血を注いで自らの芸術と宗悦への献身に身を焦がす。にもかかわらず宗悦の理由なき(?)癇癪(かんしゃく)玉は常に兼子に向けられ発砲される。婚前時期の何百通に及ぶ宗悦の恋文の真実はことごとく裏切られ、兼子自ら、夫の理不尽なエゴの犠牲者なのだと妄想する。嫉妬(しっと)と怒りが猛(たけ)り狂うなか、彼女は死を思う。だけど彼女を死から救ったのは彼女の西洋音楽に対する芸術魂であった。横尾忠則の書評
夫宗悦の桁外(けたはず)れのエゴを許す兼子の苦悩と、夫の民芸運動への共感が、彼女の中で未消化のまま肥大化していく。夫婦としての実体はすでにない。兼子のリアリティーがことごとく幻想をぶち壊す。互いに相手に求める感情は同じでも、二人の強烈な個性がそれを許さない。そこにはどうしても素直になれない照れが存在していて、結局は兼子の求める「西洋」と宗悦の求める「日本」の対決が二人の間を引き裂くと同時に、皮肉にも互いの芸術を高めていく。
横尾忠則の書評感心しました。
朝4時に土足で入ってきてああしろ、こうしろと通訳に改革を
言いつけました。とにかく無礼。
言いつけました。とにかく無礼。
これまでたびたび民芸館を観に来ていたフェニックス美術館研究所所長、ミセス・ブレークに話したら、民藝館西館接収は解除された。
宗悦に朝鮮民藝への開眼の;木塚家を作ってくれた淺川巧夫人と日本にが引き上げてきて、事務的な仕事、秘書すべてを取り仕切ってしまう。
宗悦は「民藝の」雑誌の編集者にも心惹かれ兼子を苦しめた。