<span itemprop="headline">新島八重と同志社大学圧巻の赤レンガ建築群!</span>
次々現れる圧巻の赤レンガ建物群に呆然とするぐらいでした。
小雨が降ってきて、さらに写真が上手く撮れませんでした。
連れ合いは車の中で待機、この日は高速が工事中で色々あってお疲れ気味。
ああ、電線が邪魔と腕の悪い言い訳。しかも工事中です。
彰栄館、同志社で最初の煉瓦造の校舎で京都市内で現存する最古の赤煉瓦建築である。米国人宣教師であったダニエル・グリーン(1843-1913)が設計して明治17年(1884)竣工。中央正面の時計塔と鐘塔を兼ねた塔屋に特徴がある。1979年に国の重要文化財に指定、1980-81年にかけて修復工事が行われた。
グリーン宣教師は1869年に来日、1881年から同志社英学校で神学や旧約聖書学などを講義していたが、建築に造詣が深く現在の今出川キャンパスの原型である彰栄館、礼拝堂、有終館の3棟を設計した。グリーン宣教師は神奈川で死去して青山霊園に埋葬されていたが、いつの間にか墓の所有者不明となって東京都が撤去しなければ改葬する通知を墓前に掲げていた。これを知った同志社がグリーンゆかりの教会と相談して、創立者・新島襄の墓がある若王子山頂にある同志社墓地に移転することを決めた。このニュースは2001年11月に報道された。
彰栄館についで建てられたのが、礼拝堂で設計はD.C.グリーンで明治19年(1886)に竣工した。日本に現存する最古の赤煉瓦造のプロテスタントチャペルである。アメリカ人の設計らしくシンプルな建物で、1963年に国の重要文化財に指定された。1987年から3年ほどかけて修復工事が行われた。
新島八重のポストカードセットを頂きました。
女らしく、という母親の願いをよそに、男まさりに育った少女は、
戊辰戦争の落日、会津・鶴ヶ城に500人の女たちと立て篭もり、銃を持って戦った。
その姿は後に讃えられる、「幕末のジャンヌ・ダルク」と。
その名は、新島八重。
「ならぬことはならぬのです
戊辰戦争の落日、会津・鶴ヶ城に500人の女たちと立て篭もり、銃を持って戦った。
その姿は後に讃えられる、「幕末のジャンヌ・ダルク」と。
その名は、新島八重。
「ならぬことはならぬのです
その名は、新島八重。 「ならぬことはならぬのです」 たとえ「悪妻」と呼ばれようが、"不義 には生きない"会津の頑固女!! 維新後、アメリカ帰りの夫・新島襄の妻となった八重 は、男尊女卑の世情の中、 時代をリードする"ハンサムウーマン"と ...
Wikiより
欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評される[1]。同志社英学校において戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわり、周囲と軋轢を生んだ[1]。同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された[1]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[1]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いている[1]。
新島は八重さんと呼んだ、新しい感覚の人、さすがクリスチャン