riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">平和訴え続けた丸木俊生誕100年記念展</span>


日曜日、雨の中、車で一宮の三岸節子美術館で開かれている丸木俊展に行ってきました。蔵の中には節子のアトリエの再現もしてあり立派な建物なのにちょっと遠いのが残念な美術館。
銅像三岸節子です。
 
生誕100年記念 丸木俊一宮三岸節子記念美術館). 1945年に広島に投下され た原爆の悲惨さやむごさを描いた「原爆の図」を夫で日本画家の丸木位里と共同制作し 、夫婦で「原爆の図」を持って世界を回り、広島の惨状と平和を訴えた ...
 
 
天気が良くて一人なら電車で行くはずでしたがご近所の女性抽象画家と急に一緒に行くことになりましたので車で。
 
幼い時に住んだこともある一宮です、駅からバスで行くこともあるのですが先日の大垣で日曜のバスの本数がないのをにこりました。
ここでは筧忠治や灼熱の女流画家桜井浜江展も観ました。
夫の丸木位里の妹大道あやの美術展は高浜市のかわら美術館で拝見しました。

位里の母スマは70から、妹あやは60歳から絵を描くようになったのは有名です。
俊が描いたスマの像、いかがですか。心打たれます。
俊さんは早く母親と死別されこのスマを慕っていたようです。
そのスマが痛ましい死に方をして、〔顔見知りの画家に殺害され、犯人も自殺、なぜそんなことに?〕大変なショックを受けた俊は(原爆の図とともに世界を旅していた)帰国後、スマの遺作展を開催しました。
 
俊はそれまでの赤松姓を丸木姓に改姓しその遺志をつぐことにしました。
 
スマは「長男の嫁は普通の嫁たあ違いますけえ」と夫妻の身の回りの世話をしていて制作を助けていたのです、良い話ですね。
 
俊の勧めで絵を描き始め「おばあちゃん画家」として知られ女流画家協会展では三岸節子が「これを今年のホープにしましょう」といって特別陳列され院展でも連続入選するほどでした。子供のような自由な発想と生きる知恵にあふれたスマからは俊は多くのことを学んだそうです。
 

 
丸木俊は原爆の図だけでなく、南京や水俣朝鮮人や米兵の捕虜の悲劇も描いた私が尊敬する画家です。
原発にも反対されていました。 
私が小1から愛読した子供向けの文学全集の挿絵を担当した画家でもありました!
 

 
 


 俊は20代後半にロシアとパラオ諸島で過ごしました。
ロシアは外交官の子女の家庭教師として。
パラオ諸島の女性たちと同じ衣装で少女と上半身裸で撮った俊の笑顔!
 
「ゴーガンの山、ゴーガンのマンゴー樹」を前にした俊の喜び
 

1945年、原爆投下後の広島に入りました。夫の位里の実家があったから。
 
焼け残ったかぼちゃを食べた俊はその後何年も体の不調に悩まされた、放射能という言葉すら知らなかった時代です。
 
いわさきちひろを指導し、彼女のヌードも描きました。
モデル代の節約のためお互いにモデルとなったのです。
ちひろは俊からよく「一本の線に責任を持ちなさい」といわれていました。
 
そういえばマリア・カラスも一音一音を大切にと。
 
「人間の裸ほど美しいものはないのです。すべての虚飾を脱ぎ去って、人間本来の、人間の独立、人間の尊厳を物語るもの、それは裸体ではないかしら。人間尊重、人間礼賛の精神が生んだものが裸体画ではないかしら」
 
絵を志す人に「とにかく千枚スケッチをやってみなさい」と。
誰かに教えてもらうのではなくとにかく描くことで自分の個性がおのずと現れてくると。
 
たゆまぬ努力があの名作を生んだのですね。
ノーベル平和賞にノミネートされましたがアメリカの圧力で受賞できませんでした〔?〕
 
大体佐藤栄作が受賞したのでノーベル賞は眉唾と考えています。

 
この山茶花、遠くからはバラが咲いているように見えます。美術館の玄関に咲いています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

私の勘違いでこの山田昌、アマチン夫妻の朗読も学芸員さんの解説も、
 
原発下請け作業員の講演会も行けずアホでした。
 
今年、ピースあいちで再び原爆の図の一部に再会し、ビデオでしたが学芸員さんの解説もうかがいました。