riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">敗戦記念日に献体の塔に~</span>

 
 


 

 
昨日は敗戦記念日、安倍は戦没者追悼式の式辞で、不戦の誓い、アジア加害に触れなかった。それはそうでしょう。明治に戻したい時代錯誤の人だから。
 
BSの戦争特集は「日本兵になったアメリカ人」など何本か、録画していますがまだ完全には観ていません。戦争は限りない悲劇の形がありますね。
 
 
 
 
 
名古屋の平和公園桜の名所ですがコアラの餌のユーカリ栽培の施設もあります。
 
名古屋市の戦災復興計画に於ける区画整理は、道路建設では100メートル道路が有名、区画整理のもう一つの重点が平和公園建設構想だった。
平和公園建設構想は市内の各寺院境内地に備わっていた墓地を全て東部丘陵地へ移転することによって、道路用地や公園用地を代替地との交換で円満に確保する事を目的とした。実際は1946年(昭和21年)6月設置された墓地整理委員会の指導により、中区東区熱田区を中心とする市内278寺院の墓地約18ha・18.7万余基の墓を千種区鹿子殿地内へ移転させるもので、1947年(昭和22年)から1957年(昭和32年)にかけて実施された。
市内には尾張藩菩提寺であった東区の建中寺の歴代藩主の墓や、赤穂浪士片岡源五右衞門の墓(中区・乾徳寺)など由緒ある墓所が沢山あったが、それらもほとんど全てを移転させる徹底したものだった
 
これは医学の進歩発展のためにと
自らの遺体を提供した人の功績を称えるために
1985(S60)年に建てられたものです。

「不老会」という無報酬で献体を申し出て登録する会があります。
この会が発起して建てられたものがこの「献体の塔」です。

もともとこの不老会は、昭和36年(1961年)に久野庄太郎(初代理事長、平成9年96才で成願)
の発意により始まったそうです。
久野理事長は「愛知用水の発願者」としても知られているのですが、
この愛知用水工事の際、完成までに56名の犠牲者が出てしまったんです。
そのことを苦しんだ彼は、自分の身を献体して少しでも
誰かが救われるようにと思い立ち、この会を発足させたのです。
現在は会員が二万名を突破するという大きな会に発展しました。
 
母は私が7カ月の極小未熟児を1095グラムで生んでしまったので当時すぐ死んだと思ったのです。(私も生まれてすぐ死ぬと言われた虚弱児)
多賀大社に参拝したり、検体の手続きをしました。親戚が止めましたがかえって父も献体することになりました。
先に父が亡くなったのでこの塔に祀られています。毎年5月には慰霊祭?があります。
昨日、一人でこの平和公園にある検体の塔に参拝してきました。
 
ご自分の血液まで私の子供にくださった(私と夫はA、この子はOで血液型が違うので)小児科医は母乳を冷凍するように指示しました。上の子の時は母乳も出なかったのですが、母乳を絞り小分けして冷凍して夫が病院に運びました。
 
子供を観たのは1ヵ月も後のこと、まるでお爺さん!
映画でどんどん若返る話がありましたがその赤ちゃんのようです。
これでは病院が見せてくれなかったはずです。
 
眼科医も未熟児網膜症をしてくださり、大学病院にガラスケースに入れたまま看護士さんつきで診察に行ったことは忘れられません。
 
小さい頃はよく風邪ひいたり、ひきつけたり心配しましたが御蔭さまで無事成人しました。
 
 
平和堂 昭和12年(1937)7月7日の廬溝橋事件に端を発して日中戦争が始まるが、日本軍の南京占領後には泥沼化し、日中全面戦争となっていった。中国人による反日抗争が高まる中、南京最大の寺であった毘盧寺の本尊・千手観音像と、名古屋東山の瑞雲寺に安置されていた高さ10mという木彫りの十一面観音像が交換され、あたかも仏教を通して日中の融和を実現させるかのような日本軍部による宣撫工作が秘かに行われた。当時、南京には、日本の傀儡と言われた汪兆銘政権(南京政権)があり、この観音像はその汪兆銘政権から、日華親善の名目で、日本の全仏教徒に対して贈られたものであった。
 戦後、名古屋の千手観音像は平和堂に安置されるようになったが、南京の毘盧寺の十一面観音は、文化大革命で破壊されてしまった。現在、「二つの観音様を考える会」を中心にして、この千手観音像を南京毘盧寺に返却しようという市民運動が起こっている。