riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">犠牲がなければ平和は訪れなかったのか</span>

犠牲がなければ平和は訪れなかったのか

ぼく、日本ではすっかり定番になってるこういう言い回しに、ずっと前から違和感を感じてますねん…
首相「世界恒久平和にあたう限り貢献」(NHK:3月10日)

安倍総理大臣は、およそ10万人が犠牲となった太平洋戦争末期の東京大空襲から70年となる10日、東京墨田区の「東京都慰霊堂」で開かれた法要で、「過去に対し、謙虚に向き合い、世界の恒久平和のためにあたう限り貢献していく」と追悼の辞を述べました。~

安倍総理大臣は東京大空襲から70年となる10日、遺族などおよそ600人が参列して営まれた法要に出席し、「戦災によって命を落とされた方々の尊い犠牲のうえに、今、私たちが享受する平和と繁栄があり、歳月がいかに流れようとも、私たちはそのことをいっときたりとも忘れない」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「私たちは平和への誓いのもと、過去に対し謙虚に向き合い、悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻みながら、世界の恒久平和のためにあたう限り貢献していく」と述べました。このあと、安倍総理大臣は祭壇に焼香して、静かに手を合わせていました。

安倍は、「戦災によって命を落とされた方々の尊い犠牲のうえに、

今、私たちが享受する平和と繁栄があり…」と言うてますけど

みなさんは、こういう言い方をされて、「うん、その通りだ」って思いますか?

(「尊い犠牲の上に今の平和がある」という言い回しは、
戦災被害者に限らず、戦死者に対しても使われる言い回しです)


ここで、「犠牲」という言葉の意味を調べてみると
1 神、精霊などをまつるときに供える生き物。いけにえ。
2 ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。また、そのもの。
「道義のために地位も財産も―にする」「―を払う」
3 災難などで、死んだり負傷したりすること。「戦争の―となる」 (デジタル代辞泉より)
…とあって、安倍の使った「犠牲」という言葉は、3の意味に該当するということになります


ただ、安倍は「『「尊い』犠牲」という言い方をしているとともに

尊い犠牲の上に…平和と繁栄がある」…という言い方もしているので

2の意味の「犠牲」も入っているような気がするんです

(つまり、「現在の平和や繁栄」があるのは「戦争の犠牲」のおかげなので、
その犠牲は「尊い」という理屈です)


そんでも、素朴に考えて、戦災の犠牲を含めて、戦争で死んでいった人の犠牲(被害)がなかったら

今の平和や繁栄が得られなかったのか…と言えば、そんなことはないんです

(そやかて、あの戦争は、平和や繁栄を得るための戦争ではなかったんですからね)

だから、戦争をしなくても平和や繁栄が得られる道はちゃんとあったはずで

あの戦争の犠牲が現在の平和と繁栄をもたらしたわけではありません


とすると、空襲で死んだ(殺された)人たちは3の意味の「犠牲」者であることに疑いはありませんけども

平和や繁栄を得るための「犠牲」ではなかったはずだから、

2の意味の「犠牲」者ではない…ということになります


では、3の意味の純客観的犠牲としての戦争犠牲者の犠牲は「尊い」もんなんでしょうか

この点、命は「尊い」ものだから、その命を奪われた「犠牲」もまた尊い…と思う心情も

わからないではありません

けれども、ぼくは、人の命が「尊い」ことと、戦争の犠牲者を「尊い」とすることは

分けて考えないといけないと思ってるんです


ここで、少し回り道をしてみますけども

尊い」犠牲者に対する態度は…と言えば、それは「感謝」ということになるでしょう

そして、「感謝」というのは、ありがたいことをしてもらったときに出てくる言葉であるところ

戦争犠牲者はありがたいことをしてくれたのか(ありがたいことのために犠牲になったのか)と言えば

先ほど書いたように、戦争犠牲者は平和や繁栄を得るために犠牲になったわけではないので

犠牲者に「感謝」する…というのはしっくりこないんです


また、戦争犠牲者を「尊い」と形容することは、

戦死者を「英霊」として褒め称える心情と重なるところがあるとも思うんですが

戦死者を英霊と称えて「誉める」、戦災被害者の犠牲を尊いと言って「感謝する」というのは、

あの戦争があたかも「平和や繁栄を得るための戦争」であったかのような

(=戦争被害が平和や繁栄を得るための(2の意味の)犠牲であったかのような)

錯覚をもたらすような気がしてるんです

(戦死者を「英霊」と勝手に評する人たちには、そういう錯覚を広めようとする意図があると思っています)


考えてみて下さい

戦災被害者や戦死者の死は、(国家によって)「強いられた犠牲」(強いられた被害)やったはずでしょ

本来は死ぬ(殺される)理由などなかった人たちを大勢死なせてしまった…のは

まったく正当性のない無謀な戦争を始めた当時の国家だったはずなんです


だとしたら、国家を代表する者(=現在の安倍)が過去の国家の行為によって

死を強いられた人たち(=犠牲者)に対して、その犠牲を「尊い」なんて言うのはおかしな話で

安倍が戦争犠牲者に対して、真に口に出さなければいけない言葉は

「感謝」ではなく「謝罪」の言葉でなければならないはずなんです


「謝罪」は過去の行為を反省し、それを繰り返さない…という誓いの言葉になるけれど

「感謝」とは過去の行為をあいまいにし、新たな犠牲者を予定した言葉になる…

これは、つい最近読んだ記事に出てた文章の趣旨なんですけど

ぼくが長いこと感じてた違和感の正体が、この文章のおかげでわかったような気がします




※ぼくが今回のエントリーを書くヒントを与えてくれた新聞記事を転載しておきます

(よい記事ですので、是非ご一読を…)
【歴史】戦争の犠牲者とは誰か 寄稿 田村光彰(北陸中日新聞:2015年3月7日)

ワイツゼッカー元大統領を悼む

高い倫理性と深い宗教性で知られたドイツのワイツゼッカー元大統領が一月三十一日に死去した。

政治指導者、ドイツ福音主義教会プロテスタント)の最高機関のメンバーとして折に触れて発する演説は、世界を駆け巡り、多くの人の心に共感と尊敬の念をはぐくんだ。ナチスの暴力支配とその殺戮(さつりく)戦争への反省は、近隣諸国にドイツへの信頼感を高め、ドイツ国民の歴史認識に大きな変革をもたらした。

その変革の一つは、戦争の犠牲者は誰か、を示したことでもたらされた。戦後、西ドイツは長い間、国民全体がナチスの犠牲者であるという意識にむしばまれていた。

一九八五年、ドイツの敗戦四十年にあたり、連邦議会で行われた演説はとりわけ有名である。元大統領は、犠牲者とは誰かを心に刻むよう語りかけた。彼は、ドイツ人同胞よりも真っ先に「六百万のユダヤ人」、ドイツが占領した「ソ連ポーランドの無数の死者」を挙げている。殺戮されたロマ民族、同性愛者、強制的に不妊手術された人々、ドイツに占領された「すべての国のレジスタンス」の人々。「良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人々」も犠牲者であると。大多数のドイツ国民は犠牲者ではなく、ドイツは加害国であるという歴史認識の原点を国民に示した。

日本に目を転じると、八月の政府主催の全国戦没者追悼式では、毎年三百十万人の戦没者が追悼される。ここに日本の植民地支配と侵略により殺された二千万人以上のアジアの犠牲者は含まれていない。日本の加害責任は忘れ去られたままである。

もう一つ、日本の加害責任にふれない場は、靖国神社である。この神社の付属施設・遊就館には、軍服、武具甲冑(かっちゅう)、銃、刀剣、軍旗、連隊旗、ヘルメットなどが展示され、自国戦没将兵のみを英霊として顕彰している。明治以前の庶民の古俗であった敵も味方も祭るという開放性に反して、ここでは敵の魂は鎮魂されず、内向きな暗さが目立つ。

一方、ベルリンにあるドイツの同じ追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」には、市民、兵士など国籍、民族を問わずすべての死者が「戦争と暴力支配の犠牲者」として追悼されている。

すなわち、ユダヤ人、ロマの人たち、血統や同性愛のために殺されたすべての犠牲者。ワイツゼッカー元大統領の挙げた死者が、人々の記憶に<生かされている>。施設の中心に展示されているのは、第一次大戦で息子を失った彫刻家ケーテ・コルヴィッツの「死んだ息子を抱く母親」像だけである。軍旗も銃も武具も一切ない。息子は軍服も着けず、裸身である。子どもを失った親の悲しみが伝わる。これが戦争の本質であると訴えている。

先の大戦で死んだ日本の二百三十万人の兵士の六割は、歴史学者藤原彰によれば、兵たん・補給無視の計画・指導による餓死とのたれ死にであるという。
国家は、英霊として「ありがとう」と感謝するのではなく、まずもってドイツのように、「ごめんなさい」と謝罪するべきである。謝罪は悪いことに対して行うので、繰り返さない決意となる

逆に「ありがとう」はいいことに対して行うので、繰り返される恐れがある。宗教学者の菱木政晴氏は、戦没者を褒めることやありがとうは次の戦死者を想定し、「後に続け」につながる危険性を指摘している。
。集団的自衛権の行使により、地球規模での自衛隊の参戦が間近に迫る今日、ワイツゼッカー演説は、三十年を経て「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目をふさぐ」愚挙に警告を発し続けている。

戦争犠牲者の死に何らかの意味を見いだしたい、その犠牲を尊いものだと思いたい…という心情は

十分に理解できます

けれども、そういう心情につけこまれて、国家によって強いられた死を「尊い」と褒め称えることは

彼らの死に何らかの意味を見いだすものでは決してありません


ぼくたちは、犠牲者に頭を垂れ、あのようなことは二度と繰り返さない…と誓うことなしに

彼らの死に報いることはできないはずですし、そうすることが

彼らの死を無駄にしない唯一の道であると、ぼくは思います


転載元: mimiの日々是好日