riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">憲法と言う経典</span>


今日は憲法記念日。この日を今日で最後とさせないために、午後から講演を聞きに出かけてきます。その前に、昨日新聞で読んだ、作家島田雅彦さんの寄稿文は強く共感できる言葉に満ちていましたので、部分的に省略して掲載致します。

 憲法という経典」 作家・島田雅彦  朝日新聞5/2
――暴力の連鎖断つ誓い 戦後日本の信用の源 改憲すればすべて失う

日本が自国のことのみならず、他国の戦後復興、人道支援にも貢献し、「世界の赤十字」たらんとしてきたことで獲得できた世界的信用は大きな財産である。外国人が日本人に対して抱く好印象もまた、平和主義を貫いてきたことに由来するだろう。

「優しい日本人」のイメージはおそらく、現行憲法によってもたらされたに違いない。それを「平和ぼけ」と自嘲する人は改憲してでも「世界の警察」の片棒を担ぎたくてしょうがないようだが、そうすれば戦後日本が積み上げてきた信用は全て失われる。彼らはその損失を計算したことがあるだろうか

憲法日米安保自衛隊は戦後の三大矛盾と見なされてきた。歴代政権はアクロバティックな憲法解釈を行うことで自衛隊を派遣したり、集団的自衛権の行使を可能と判断したりと、その矛盾を拡大させてきた。敗戦後70年が経過して、自民党憲法を改正することで矛盾解消を図りたがっているが、自民党による改正案も改正理由の説明も、さらには戦後レジームからの脱却」というような政治方針も全て支離滅裂である。

改憲の理由として自民党が掲げているのは、現行憲法連合国軍の占領下で同司令部に押しつけられたものであり、国民の自由な意思が反映されていない、という主張。この押しつけ論が出てきたのは、自衛隊が発足し、アメリカが日本を極東における反共防波堤に仕立てるべく再軍備をさせるようになった頃、つまり1954年あたりから。自衛隊憲法の矛盾はアメリカの政策転換に起因するのである。

それに先立って、51年、日米は旧安保条約を締結するが、アメリカが出した条件は、日本の独立後も占領期と同様に「米軍に基地を提供させ続けるが、米軍は日本防衛の義務はない」とするものだった。この不平等を是正するために、再軍備をした日本は周辺有事の際は集団的自衛権を行使して、アメリカを守るという提案を55年にしたことがある。その交換条件として米軍の撤退を要求する構想もあった。

日本が集団的自衛権の行使を主張するのは60年ぶりというわけだが、現政権の頭には「米軍撤退」の4文字などなく、日米同盟の強化しか考えていない自民党が沖縄に冷淡な理由もここにある。現行憲法を押しつけだからといって改めようとするくせに、同じ押しつけである日米安保条約は頑(かたく)なに守ろうとする。ほとんど日米安保憲法の上位に置こうとする政治方針と映る

唯一、「自虐史観からの脱却」を主張して、東京裁判を批判し、歴史解釈で中韓と対立する時だけはナショナリストの面目を保てると思っている。それは外交も経済もアメリカに丸投げしている現状を目立たなくさせるパフォーマンスにすぎない。彼らの支持者の一部は、政権を批判する人を一方的に売国奴呼ばわりするが、アメリカの利権を守る使命を帯びた官僚や御用学者に焚きつけられ、日本をアメリカに安売りする人々のことはどう呼んだらいいのだろう

     ■     ■

対米従属派が嫌う憲法9条戦争放棄規定は、元はといえば、昭和天皇の戦争責任を問わず、天皇制を残すことの交換条件だった。日本での軍国主義の台頭を防ぐ規定をつけることは占領時代にあっては最優先の案件だったし、国民の平和への希求とも呼応していた。

天皇が折々に護憲と平和への希求を明らかにされるのは、この事情も踏まえておられるからだろう。護憲と平和主義は吉田茂の「軽武装、経済重視」の路線とともに「戦後レジーム」になったわけだが、そこから脱却しようとすれば、戦前に回帰するしかない

戦前回帰の傾向は自民党憲法改正案にも見てとれる。まず自衛隊国防軍と呼び、「主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し」と改正9条に記しているが、自民党が作った有事法制でも、国民が国の安全保障に協力する責務を明記しているので、戦時中と同様に有事の際は国民も動員されることになる

また現行憲法にはない緊急事態についての条文を加え内閣が法律と同一の効力を有する政令を制定できるようにし、緊急事態時に国家総動員体制を取りやすくしている。ほかにも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分をユートピア的発想による衛権の放棄」と捉え、削除し、人権規定においても、現行憲法で「公共の福祉」とある部分を「公益及び公の秩序」に置き換えて、それに反する自由と権利を制限している。

しかも「公益及び公の秩序」の定義は政府が勝手に決められるというのだから、改正案は国民主権を謳(うた)いながらも、思いきり国家主権的である。国民を最優先するように見せかけながら、ナショナリストたちが国家を私物化することを奨励するようなものだ国民を国家の暴力から守る憲法から、国民を戦争に駆り出せる憲法これは明らかに「憲法改悪」である。

     ■     ■

改憲のハードルは高いが、ほぼ一党独裁体制の下、迷走する野党からの賛成票を上乗せし、改憲発議要件の緩和に成功すれば、改憲は一気に進む可能性もある。反中ナショナリズムを焚き付けられ、大政翼賛ムードに導かれた世論もそれを容認してしまうかもしれない

そんな中で、いま一度、国民は自問すべきではないか? 現行憲法に忠実に政治を行うことがそれほどナンセンスなのか? 日本が直面している現状と現行憲法は、耐え難いほどにかけ離れているのか?

確かに憲法と歴代政権の政治決定に齟齬はあるが、国民はその時々の政治情勢とは別に、憲法を平和の誓いとして受け継いできた。聖書がキリスト教世界の共通の倫理である博愛、寛容、自由の拠(よ)りどころであるように、憲法も日本人の倫理の経典であり続けた

憲法には政治的な横暴、権力の濫用、人権の侵害から国民を守ることが謳われているが、それは我が国が他国から信用されるに足る国家であることの宣言なのであり、暴力の連鎖を断ち切る誓いでもあるのだ。そして、何よりも他国の戦争に巻き込まれないための保険として、機能してきた

憲法戦争放棄を謳っている限り、自衛隊の海外派兵や米軍の後方支援に踏み切ること自体が違憲。だからこそ政権の暴走は抑止されているのだ。政権の暴走にお墨付きを与えるような改憲は日本の自殺行為

憲法武力行使の歯止めになるとの考え方は保守派のあいだでも受け継がれてきた。過去にアメリカから、集団的自衛権を行使し、ベトナム戦争に参戦せよと求められても、断ることができたし、湾岸戦争でも巨額の軍事援助はしたものの、かろうじて武力行使や兵器の輸出を免れることができたのだった。9条を維持しさえすれば、いつでも戦争放棄の原則に回帰できるし、中立主義や日米同盟の再考、多国間安全保障の構築など政治的選択の幅を広げられるのだ。

     ■     ■

(略)日本国民の間に広がる中国に対する不安とそれを払拭しようとするナショナリズムを利用し、日本により大きな安全保障上の役割を担わせ、アメリカの防衛費支出を軽減させる。現政権はその期待に応え、「積極的平和主義」をかざし、日本の安全保障環境を良好にすべく努めようとするが、その実態はアメリカの軍産複合体を支えるカモになることである。テポドンひとつ迎撃できないミサイル防衛システムを巨額で導入させられたり、沖縄の米軍基地の移転にやはり巨額の支出をさせられたりするだけだ。(略)

現政権は、軍需産業を拡大し、日本の権益や邦人の生命、財産を守るという名目で自衛隊を紛争地域に出兵させることしか頭にないようだが、外交努力を怠り、安易に武力行使をすれば、そこから暴力の果てしない連鎖が広がることは、イラクやシリアの状況を見れば、一目瞭然である。紛争が拡大すれば、自衛隊による災害救助にも影響が出るだろう

戦争は原発にも似て莫大な負の遺産を後世に残す。好戦的な政治家たちは戦争責任など取る気はさらさらなく、自分たちを支持した国民が悪いと開き直るだろう。彼らが自殺行為に走るのを止めなければ、私たちだって自殺幇助の罪をかぶることになるのだ。

現行憲法は単にユートピア的理想を謳ったものでも、時代の要請に応えられなくなった過去の遺物でもなく、日本が歩むべき未来に即した極めて現実的な指針たり得ている


しまだまさひこ
 1961年生まれ。83年、「優しいサヨクのための嬉遊曲」で作家デビュー。法政大学国際文化学部教授。芥川賞選考委員も務める。


転載元: “わが谷は緑なりき”~私の映画ノート